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物語食卓の風景・東京の2人③

 結婚と離婚、そして流産まで思い切って今まで黙っていた過去を話し始めた美紀子。そこで話すのを止め、食べかけのケーキにフォークを入れ、口へ運ぶ。ゆっくりと咀嚼し、お茶を飲む。目の前では、真友子が真剣な眼をして身を乗り出している。ここから先は、美紀子にとっても話しにくいところだ。お茶が口の中に残った甘い断片を洗い流していく。

 その間にも、どのようにあの頃を説明しようか、考えを巡らす。今となっては遠い過去。この間、元夫と会うまでは、日常に紛れて思い出すことすら少なくなっていた。

 いや、忘れよう忘れよう、と無意識に記憶をしまい込もうとしていたかもしれない。それでもどうしても、心の中に生まれた欠落感は埋まらず、それでずっと猫を飼ってしまうのかもしれない。今のアンナちゃんは、1人暮らしを始めて3匹目の猫だ。猫が死んでしまうと、しばらくは悲しくてしょうがないが、しばらくすると、また新しい猫を求めてしまう。自分の猫好きを知る周囲から譲ってもらうこともある。

 あの、妊娠が分かってからの、不安な日々。考えてみれば、それが当たり前と思いつつも、あまりにも順調に妊娠してしまったことで、喜びよりも不安のほうが大きかったような気がする。

 それまであまりにもとんとん拍子に、ことが運び過ぎた。確かに大手出版社の就職試験には落ちたが、プロダクションの試験には引っかかって、憧れの編集の仕事に就くことができた。仕事を覚えるのに必死だった2年目に、初めて任された連載の仕事。そこで仕事を頼んだのが、樹だった。

 樹とは、もともと兄の結婚式で出会った。当時は地方の新聞社に勤めていたが、取材で撮影もするうち、写真にハマっていったらしい。周囲に聞いたりテキストを買って勉強をして、カメラマンとして一本立ちしようと東京に出てきていた。連載が決まる少し前に、兄から教えてもらったと言って、挨拶に来ていた。それで、ふと思い立って連絡を取り、仕事を依頼したのだ。「まだ生活が不安定だから、連載の仕事はありがたい」と、うれしそうに歯を見せて笑った。その顔がとても爽やかに見えた。あの笑顔で、私は恋に落ちたんだと思う。ああ、思い出しても陳腐! 

 陳腐と言えば、その後の展開も陳腐だった。毎月連載で顔を合わせ、一緒に仕事をする中で、話が合うなーと思い始めていた。気に入った小説の話をすれば、向こうがそれを読んでみると言い、その逆もあった。それでどちらもその話をする。でも、今になって思えば、ちょっと無理はしていた。彼が好きなヘミングウェイも開高健も、あの頃一生懸命読んだものの、男くさい話に感情移入がしづらくなり、あの時期を除いて読んでいない。私がすすめた宮本輝だって、あの人は出て行くときに忘れていった。

 それでも恋に夢中なあの頃、私たちはお互いの気が合うという、半分願望みたいな思いに囚われていった。いや、向こうがどうだったかはわからないのだから、私は、と言うべきか。

 仕事を一緒にして数カ月後には、デートの約束をした。映画を観て、食事をして。次はディズニーランドへ。自然に一緒に過ごす時間が長くなり、お互いの部屋を行き来して、クリスマスには、民家を使ったレストランへ行った。間接照明の揺れる中で、壁で半分仕切られている席へ案内された。デザートのときに、プロポーズされた。その1カ月前に指輪のサイズを聞かれていたから、私も分かっていた。分かっていたのにドキドキしていて、彼の顔を見るのが恥ずかしかったっけ。

 好きだし、話も合うし、と思っていたのは、そう思い込もうとしていただけだったのか。実は部屋を行き来する中で気づいていたことがある。彼は、家事がまるでできないのだ。いつ行っても部屋は散らかっているし、台所には、流しにカップラーメンの空き容器と、缶ビールの空き缶が転がっていたりした。2人でふとんに倒れ込んだときに、ふと床にこびりついた髪の毛が目に入ることはしょっちゅうあった。

 ちゃんと掃除したほうがいいんじゃないかと思ったが、それこそ結婚もしていないのに、かいがいしく掃除をするのも嫌だったし、「掃除したら」と言ってケンカになったら怖いと思っていた。そんな風に言い出せないことがたくさんあったのに、そういうことは、関係が深くなっていくにつれて変わっていくはずだと思い込もうとしていた。

 あの指輪。ティファニーだった。東京に出て来たばかりのフリーのカメラマンで、私との連載は初めての定期的な仕事だと言っていた。彼が無理していることは、ちょっと考えればわかったはずなのに、どうしてそこを考えなかったのだろう。彼が私に求めていたのはたぶん、安心だ。私が求めていたのはきっと、人並みの生活をしている、という世間体だ。

 もっと冷静に考えれば、まだ若かったんだし、別の恋を求めることもできたはずなのに、彼を逃したら次はないような気がしていた。次がなければ一生1人になる。それが怖かったのに、結局その後1人の人生になってしまった。そして、そういう生活が案外気楽で楽しいとも思っている。

 何しろ、人が1人ふえれば、生活は自分の思い通りには運ばなくなってしまう。今は、片づけた部屋が知らない間に散らかっていることもないし、モノを捨てるかどうかは自分の一存で決められる。洗濯だって、週に1~2回で済んでしまう。料理は、めんどうになれば総菜を買っても外食しても、誰にも文句を言われない。仕事が忙しいときは部屋も散らかるけれど、自己責任だと思えばあきらめもつく。料理は、ときどき張り合いがなくなるけどね。だって、料理して食べて片づける、料理して食べて片づけるのくり返しなんだもの。片づけなくちゃいけないのに、どうして毎日何回もお腹がすくんだろう。料理は本当に面倒になることがよくある。

「先輩、どうしちゃったんですか!」

真友子に言われて、ため息をついた自分に気がついた。

「さっきから黙り込んでいらっしゃるから。話しにくいことだったら、無理に話さなくてもいいですよ。私は経験がないから、流産のつらさがわからない。話す必要、ないですよ!」

 真友子は昔から、ときどきこんなふうにムキになる。人をかばおうとするときに。学生時代からずいぶん経ったのに、真友子だって、いろいろな経験をしてきたはずなのに、こういう純粋なところが残っているんだなあと不思議に思う。だからお母さんと衝突するのかもしれないな。必死な顔をしているのを見ると、思わず助けたくなってしまう。何を? 何ができるわけでもないのにね。

「大丈夫よ。ちょっと昔を思い出していただけ。なんかね、あの頃の私は適齢期信仰にどっぷりハマっていたし、世間から外れることも、人生を1人で生きることも怖いことだと思っていたの。それで、いろいろなことに目をつぶって結婚したら、そのツケがしばらく経ってから溜まっていたわけ」

「若い頃は、世間から外れるのは怖いですよ。不幸になるんじゃないかと思ってしまう。だって、そういう風に刷り込まれているから。先輩は世間並みにと思って世間並みの人生コースを歩んだはずだったのに、流産してその思い込みから自由になった、ということなんですか、もしかして」

「真友子、あなたときどき、鋭すぎること言うわね。そうかもしれない」

 ここから先をどう話を進めるべきか。美紀子はまたケーキを一口ほおばり、しばらく考え込んだ。

 

 

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