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母の死

またねって言ったのになあ。
いま、母が寝ていたベッドを戻してその上で書いています。
20日に有休とっていればな。
19日、夜の19時半ぐらいに、
「新タちゃん、今日どうするの?」と聞かれたのは、いつもの母ならもう遅いから帰りなというところで、明日までいることを含めた発言をしていたのは、これはもう死を予見していたんだろうな。
「調べたけど5時半に家を出なきゃいけないから帰るかなー」
「じゃあこれ遺言手伝ってくれたし、お金持っていてね!特急乗って帰ったらいいよ」
「えー……まあもらうか。ありがとう。なんか寒いんだよね。マフラー持ってきたらよかった」
「そうだね、マフラーいる?」
「うちにたくさんあるからなあ〜いいや」
「そう。じゃあまたね」
「うん、またね」

と、扉を閉めて終わってしまった。

22日の朝に父から不在着信が来ているのに気づき、あと1週間程度かもとメッセージが入っていた。
なんてこの日に限って寝つきがよかったのでしょうね。
仕事に予約の人がいたり、回答しなきゃいけない案件があり、引継してこなきゃと仕事に出たのが間違いだった。

仕事に出たらバカのバカみてーな仕事に巻き込まれて、17時過ぎまで働いてしまった。
私の過失ゼロ、客と提携先の銀行のお粗末なミスを私のせいにされ、13時に謝罪TELしろとかいう。
はー……。

しかし、父からの連絡もはっきりとした状況を伝えるものではなく、よくわからん諺で今日明日かもとかいうのを言ってきたり、面会の条件が厳しい。明日にするか?と言ってきたりしていて、日和見をした私が悪い。会いたいなら朝から休むべきだった。

21時10分過ぎに病院から電話があり、父も妹も連絡がつかない。すぐにきてほしいと言われた。
何で誰もでねえんだ!?と泣きながら10分で支度して、横浜からタクシーに乗って地元まで帰る。
運転手さんは母と同じ61歳だった。潜水士の仕事をしていて、再任用やって給料下げるくらいならと、タクシー運転手に転職したとのこと。
長い道のり、運転手さんも母との別れをコロナ禍にしたらしい。地元が北海道だから、死に目にも葬式にも出れなかったと。
潜水士の仲間が年に何人かなくなっていたこと。
新卒の潜水士の面接はサーファーは落とされるなどの話を聞いた。

病院まであと少しというところで、やっと父と連絡がついた。

20時50分に亡くなったとのことだった。

「お母様の魂が、新タ様と共にありますように……」

と、運転手さんに冥福を祈られた。

病院ついて、病室いって、3日前には話をしていた母は眠りについていた。
私がついて少しして、医師が脈を取って瞳孔をみた。死亡確認をしましたと言われた。

こんな苦しいことあるかね。

あーあ。誰にも看取られないで逝ってしまった。

一番避けたかった。

本当に、なんでこんなことになるのかな。

入院する直前に、私以外でありがとうねと話して別れたのが最後の会話だったそうだ。

ここにいたかったなあ。

急変した状況を聞いていれば、朝電話していれば、とか、判断を間違えたことを後悔する。

次に母に会えるのはいつだろう。

またね。



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