助産師になると決めました
助産師になりたいというかなると決めて
まず助産師学校
もしくは助産学専攻科
への受験という壁があります。
もともと看護学生として
なんだかもしかしたら向いてないと
思っていたので、成績もイマイチだし
実際実習で燃え尽きてましたし
本気度ゼロだったのも重なって
そうそう受験勉強が追いつくわけもなく
はい浪人生です。
ご訪問ありがとう。
寄ってくださって嬉しいです。
現役では補欠で1番目ってとこまでは
ある助産師学校の位置に居たんだけど
どこも受からず、やっぱ無理かー...と諦め
もう助産師は無理モード3ヶ月が軽くすぎ
そこから何故だかスイッチが入って
浪人中の夏には
あれ?結構良いとこ狙えるじゃんって
感じになって、
受験した6校のうち5つ合格
そして第1志望の助産師学校(助学)に入学
いまでは色々あって
助産師学校とか専攻科とか
大学ではもうその科の扱いではなく
大学院とかになる。
学習の方も実習の方も
レポートもなにもかも
看護学校とは雲泥の差で
めちゃくちゃハードだった。
卒業までの間も学生なりの
色々な様々な経験をするけど
それはまぁ
どうでも良いかな、良い思い出だっ(笑)
そして卒業して晴れて
国家資格も取れ助産師になりました。
ドキドキだけどやる気は戻ってました。
就職は大学病院
またもぉそんなとこ選ばんでもいいじゃーん
みたいなツッコミが聞こえなくもない(爆笑)
今で言うパワハラにあいました。
ね、もうウケるでしょ?あはは
当時はパワハラという言葉すらなかった。
多分パワハラだと思っているのは
受けたと思っているわたしだけだと
思われていたであろうと確信してる。うん。
今でも思う、
相手側は指導しただけだから。
でも、わたしはしんどかった。
対人恐怖症になり不眠になり
壁を見てる方が楽になり...
めちゃくちゃ食べたけど
2か月で8kgほど痩せた。
でも本当にあの経験があるから
今のわたしが居る、
感謝しかないです。
パワハラの内容はもう流したので
詳しくは書かないけど
毎日ちゃんと寝ようと思っても
5分眠れたら良い方
すごい熟睡感だった、でも5分
それが3か月続いて
激痩せしてって
もう辞めようと決めたかな。
1年目の時は
振り返りといって
分娩係であっても病棟勤務でも
その後、個人で振り返るレポートを提出し、
先輩助産師のオッケーが出てからの
帰宅になるため、
書き直しを命じられる毎日で
ずっと病院に居たなぁ
例えば日勤のために7:45には
ナースステーションに入り
日勤勤務を終えてから
記録を書くにしてもOK貰えないと
記録ができないので書き直しを言われ
日勤の先輩がもう帰るからとか
待てないとかだと
準夜の先輩に委ねられ
それでもダメで深夜の先輩にまで。
要はわたしがバカで要領が悪かった
だけ
だったんだけど
やっぱおかしくなるよねー
深夜の先輩までわたしの日勤の仕事内容の
振り返りを見てもらうことへの
罪悪感や自分に対しての情けなさが
どんどん
どんどん
どんどん増幅した。
分娩係(お産に関われるローテーション)は
3か月でチームで回っていました。
3か月の間だけだけど
夜勤の一人立ちはすぐやってきました。
大学病院といっても当時最後の砦と言われ
ほかの大学病院からの搬送を受けるという
赤ちゃんとお母さんのいのちという意味での
最後の砦でした。
この辺りから
わたしの時にはお産が多いという
現象が始まります。
夜勤の時、当直医の先生方から
「お前が夜勤かーまじかー
呼ぶなよ〜もう寝とこっ」
と言われ始めました、
たった3か月の間に何回夜勤したかな
数える程だったのになぁ(苦笑)
新人なので経験を積ませようと
率先してお産に関わらせてはもらえます。
2年目には1年目新人に譲らねばなりません。
そして日勤でもよくお産に当たりました。
しかも大学病院でのお産なので
全てハイリスクでした。
糖尿病合併はローリスクの範疇と
いってもおかしくないほどの
ハイリスクの
妊婦さんや胎児ばかりでした。
ある日勤の朝分娩室へ行くと
朝の血液データでもう母体が危ないため
張り止め点滴をストップしたという
慢性腎不全でシャントがあって
週3回透析しているお母さんのお産を
受け持つことになりました。
陣痛が始まっていました。
24週6日でした。
慢性腎不全ですよ
透析中ですよ
24週ですよ
新人ですよ...
続く...
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