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【神道】キフネのみ社について──信仰・恋愛・人間観〈前〉

──男に忘られてはべるころ貴船に参りて御手洗川に蛍の飛びはべりけるをみて詠める。
和泉式部
  物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
御返し
  奥山にたぎりておつる瀧つ瀬に玉散るばかり物な思ひそ
この歌は貴船の明神の御返しなり。男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなん言ひつたへたる──
         『後拾遺和歌集』巻二十神祇

 自己紹介はさらに延期します。
 今日は宗教と恋愛と人間観の話をしたい。まずはさる六月一四日、貴船神社にお参りした。たしか一年ほど前から何度も詣でたいと考えてきたが、今回東京から来たアングラ系の友人に声をかけられたとき、天啓だと思った。
https://twitter.com/ACINOLI/status/1290156013870440450

 ぼくの宗旨は神道原理主義である。これだけでは色々と誤解を招きそうだが、一方でぼくは完全に矛盾しつつ、無神論者でもある。こんな論理を使うのはぼくくらいではないだろうか。これにはあとで注釈しないといけない。
 それはとにかく、ぼくは普段から神社に足しげく通っている。前を通れば基本的に人目を気にせずに頭を下げるし、精神が落ち着かない時にもよく参拝する。しかもこの最近、失恋の感傷から、夜な夜な家から歩いて一〇分の下賀茂神社に頭を下げに行き、とめどない感情の流れを変えようと懸命に祈ったりしてきた。友人のカトリック教徒に言われたことだが、ぼくは信仰の違いにも関わらず、とてもカトリック保守的な行動規範を持っているという。思い返すとたしかに、彼らの祈りの態度には絶対的な共感がある。ぼくは神社にも教会のように、祈祷できる場所が欲しいと常々思っている。そして、大変信仰深い性格であると思う。無神論は置いといて、この文脈で思案するところ、どうしてか一〇日以上前から貴船には無性に行きたかった。友人に声を掛けられる前にもぼくは行こうとしていたが、神社は山奥にあり、土砂崩れの影響で山に登る手前で電車が止まってしまっていると聞いて気持ちが折れてしまっていた。友人とともに鞍馬山から入り、天狗にまつわるあれこれを拝見しつつ、登山を交えてキフネに入った。

 神社を書くときにカタカナと漢字が入り乱れてしまうが、本来なら僕は神社もご神名もかな表記するべきだと思う。なぜかというと、漢字を外来文化だと考えているからである。かな文字はその派生ではありつつ、日本語に合致した体系であることによってぼくは日本の文字とみなしている。ぼくは筋金入りの民族主義者である。日本語は表音文字の方が本質であり、漢字と漢語は日本的ではありつつも、オーヤシマ的ではないと考えている。ぼくが自分の名前を漢字で書きたくないのも、書くときには毎回別の漢字を使うのも同じ理由である。漢字と漢語を使う時、潜在的にシナの文脈に参入することになってしまうのである。

 キフネはいい場所だった。町というには規模が小さいが、川の渓谷にそって通りがあって、それに近世的な数えるほどの宿屋が営み、そして神社によって信仰が培われ、参拝客はそこそこ多かった。温泉町といった印象である。有名な川床もいいところだった。すぐ下を川が流れ、木組みの床に畳や赤布が敷かれている。菅垣に覆われて中はよく見えないが、中は川の音しか聞こえない、涼しくていい場所なのだろう。そういう場所ではない軒でそばを食べてみたが、想像の五倍くらいよかった。しいたけの山椒煮、山芋とろろ、温泉卵、もみじ葉のお麩、生そばで千円。川床のお店も懐石料理がなかなかおいしそうだったので、今度二万円くらいもってもう一度行ってみたいと思う。

 行きがけに気がついたのだが、キフネの御社の一つ、中宮の結社(ユイノヤシロ)は恋愛の神でもある。その縁起をしらべると、その昔、アマツヒコヒコホノニニギがカササの浜でコノハナサクヤヒメに一目惚れし、その父オホヤマツミに結婚の許しを得ようとたずねたところ、喜んで結婚を許し、姉のイワナガヒメも一緒に差し上げました。ところがイワナガヒメはとても醜い顔をしていたため、実家に返されてしまいました。その身を恥じて引きこもられたイワナガヒメは、代わりに人々に良縁を与えようと誓いました、という趣旨のことが説明書きにあった。だとするとこの神様、はちゃめちゃにかわいそうなお方なので、素直に恋愛について祈れなさそうな感じではある。が、過去にだれもその点については疑問に思わなかったらしく、すでに平安時代には縁結びの神様として、庶民から宮廷の貴族まで多くの人々が参詣していたという。そのご神徳の一つを冒頭に載せたが、天皇陛下が選ばれた和歌集で、神が詠み賜う重要な歌の一節に収められた逸話である。
 大意は、ピに浮気されて無理みが強くなった女子、和泉式部(いづみしきぶ)が貴船神社にお参りした時ホタルを見て「ピのこと考えてたらホタルもあたしからもれでた魂にしか見えない。まじいつの間にこぼれた」と詠んだら、なんと「そんな大自然の滝の水かと思う悩み方ちょっと激しすぎるでしょ、大丈夫?」ってガチで神様っぽい声(セクシーすぎて尊い)が天から降ってきた。あれはもう絶対神。ていうかまじで神対応すぎる。神オブ神。
 というくだりだったわけだが、そんな神様なら、ぼくも失恋してるわけですから多分癒していただけるだろうという風なことを考えたわけである。
https://twitter.com/ACINOLI/status/1290156013870440450

 さて、神に向かって手を合わせるとき、ぼくは人の幸福と環境への感謝と自分の願いをよどみなく言い表すように心がけている。ちなみに神様に伝わるように古文がベストだと思っているが、余裕のない時は現代武蔵山手弁で失敬している。言葉にならない時は言葉を整理しなければならない時であり、神への感謝ができない時は感謝できるように癒しを求めるべき時であり、古文にする余裕がない時は頭を休ませるべき時である。そして、しつこいようだが最近は失恋でしんどいので、一日も早く新たな出会いを求めている。ぼくの経験上、こういう時頼れるのは神しかいません。我ながら完全に底辺である。
 この日は「いとも畏き川上のキフネの神に伏して申さく、我が名はアヒカハノトモサカノヒコキヌノナカチコアキノリにはべり。ムサシの国に生まれたるカミツケびとなりて、みとせ前よりヤマシロの国に住まひをうつしはべり。ひごろ御前のみいきほひによりて、身内の者共が健やかなりてつつがなき事、まことにかたじけなくはべり申す。いつか、すめらみことをいただくこの国をたいらけくやすくにとなすために、やつかれにおほいくさのきみのみくらひを玉へ。わがたむろにこの国のまつりごとをまかせ玉へ。かならずやこの国を建て直し、ともがきのよろづの国々とともに栄ゆ道を進み歩まむことを誓ひたてまつる。またこのいく月か、恋やぶれしより気枯れを負ひぬ。人を導く力を取り戻すばかり、やつかれにいつかよきつまとなる人を給へ。あめのみちなるいもをせの人を見定めるまなこと、その人を思ふ心を玉へ。」と祈ってきた。
 序盤はいつもの定型句になりつつあってどうでもいいとして、終盤を縮めて「いもせなるゑにしのひとをみさためておもふこころをかみにのみけり」とうたい、七夕の短冊にしたためて結んできた。「いいご縁をぼくがちゃんと意識できて恋できるような気持にしてください、お願いします」という意味である。〔続けます〕

    紀元二六八〇年〇六月一七日 暁九ツ三ツ

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