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コースは輪廻の終わり、時間の終わりへと向かう霊性の道である

欠乏の原理で突き動かされている私たち

この世界に居る私たちは、「満たされる」ということがありません。

自分の内側に正直になるならば、いつも欠乏の状態にあるのが認識できるはずです。

あぁなりたい、、、こうなればいい、、、あれが必要、これが必要、、あれがあーなってほしい、、、

たとえ、一時的に満たされたとしても、それは長続きしません。

どんなにハッピーであっても、どんなに満たされたとしても、そこには「もっともっと」「もっとより良きもの」「よりもっと多くを」という欲求は尽きることがありません。

ようするに、欠乏感がなくなることがないわけです。

私たちが理解しなければならないのは、私たちの思考のすべてがその欠乏感から派生しているということです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、それを「欠乏の原理」と呼んでいます。

コースの教えに基づいて自分自身を観察していくとき、私たちはいつも「欠乏の原理」のもとに突き動かされていることを認識することができます。

その欠乏はけっして満たされるということがありません。

それゆえに、自分の欠乏を満たしてくれるものがあると、私たちは自分の外側にひたすら探し続けるわけです。

いわゆる、それがこの世界で私たちがしていることだと言うことができます。

どのようにして私たちはその欠乏を埋めようとするか?というと、まずは、物理的、世俗的なもので満たそうとします。

そして、そのようなものでは満たされないことが分かってくると、こんどは、自己啓発、スピリチュアル、宗教などといったものでその欠乏を埋めようとするわけです。

そのようにして私たちは、外側へと向かう欲求、外的探究は終わることがありません。

私たちは、まさに、外的探究の中毒患者になっていると言わざるを得ません。

コースの観点からいえば、この世界にいる私たちは誰もがみんな病んでいると言うことができます。

病とは、何らかの外的探求である。健康とは内なる平和である。(T-2.Ⅰ.5:10-11)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちは、けっして満たされることのない旅をしているといえます。

それというのも、そもそもが欠乏が前提の思考体系の中でいくら満たそうとしても、結局のところ、欠乏で終わり、欠乏に戻って来ることになるのは当然のことなわけです。

それは、けっして見つかることのない探究の旅だと言うことができます。

それは、飽くなき欲望の旅であり、終わることのない旅だといえます。

それを、仏教の比喩的表現では、「輪廻」と呼んでいます。

そう、私たちはまさに輪廻の旅に幽閉された状態にあるわけです。

本来、私たちは完全なる神の子であるにもかかわらず、神の子はそのようなことをしているということです。

私たちがそのことを認識しないかぎり、どうやってその輪廻から脱出することなどあり得るでしょう。

自我の命令を簡潔すると、「探せよ、されど見つけることなかれ」となる。これが、自我があなたに差し出している唯一の約束であり、自我が守る唯一の約束である。自我は自分のゴールを狂信的な執拗さで追求しており、しかも自我の判断は、ひどく損なわれているとはいえ、完全に一貫している。したがって、自我が行う探究は挫折すると決まっている。(T-12.Ⅳ.1:4-6,2:1)

奇跡講座/中央アート出版社

その探究には終わりがないということに気づきはじめた者たち、そして外的探究の旅に疲れ果てた者たちが、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学びはじめるのだといえましょう。

そうでないなら、この純粋なる非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティの道に惹かれるはずがないというものです。

もちろん、かくいう私もその一人です。

コースが学ばれていくとき、ある真実が真に理解されていきます。

「外側には答えはない、そして、スピリチュアルな霊的探究にすらにも、どこにも答えはない。答えなどないところに答えがあると思っていただけだったのだ」と。

コースの学びが深化していくにつれて、これが最後の時間の旅になることを確信していくようになります。

というのも、時間の旅こそが、幻想にすぎなかったと分かってくるからです。

輪廻という旅もなければ、時間という旅もない、と。

世界も無ければ、ここには何もない、ということが体験的に理解されていきます。

コースは、それらのことが体験的に理解されていくスピリチュアリティ(霊性の道)であるということを知っておくと良いでしょう。


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