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なぜ、コース形而上学の学びと理解がそれほどまでに重要なのか?

今回は、

なぜそれほどまでにコース形而上学の学びと理解が重要なのか?

ということについて、私の学びと実践において実感しているところから書いてみようと思います。



なぜ、コース形而上学の学びが重要なのか?

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の概要だけを分かっているだけなのに、コースを理解したつもりになっている人たちがおられたりします。

そんな彼らがよく抱きがちな疑問と質問が以下のものだといえます。

なぜ、コースを学ばなければならないのか?
なぜ、そんなにコース形而上学(理論)の学びが大事なのでしょうか?

あるいは、

コースが教えているスピリチュアリティは非二元の教えなんだと分かっているのだから、それ以上のコース形而上学(理論)の学びなんて必要なのでしょうか?

といったものです。

「コースを学ぶ」ということについて、そんなふうに思っている方々は結構おられるのではないでしょうか。

とくに、悟りの体験や一瞥体験をしたことのある方なんかは、以下のように思っていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。

理論よりも、体験のほうが重要なのではないでしょうか?
体験すれば、理論なんて必要ないのではないでしょうか?

というふうに、です。

そのことについては、たしかにコースの中でも、以下のように述べられています。


普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験ならば可能であるばかりか、必要である。(C-in.2:5)

奇跡講座/中央アート出版社


ただし、だからといって、コースの形而上学を学ばなくてもいい、というわけではないということです。

そこで述べられていることの意味は、体験的に理解していくことが私たちに求められているということです。

コースは真理(愛/普遍的な神学)について語られているのではないということです。

そして、

”このコースは、その体験へと向かうものである。”(C-in.2:6)

ということです。

その体験へと向かうためには、やっぱり訓練が必要なわけですが、その訓練していくためにコース形而上学(理論)の理解が必須なのだということです。

ようするに、

「コース形而上学」とは何か?

というなら、コースが教え(教義)に基づいた実践をしていくための土台となるもの、と言うことができます。

つまりは、コース形而上学を理解していないならば、その実践もあり得ないということです。

あるいは、もしコース形而上学の理解が歪曲されるならば、その実践ももちろん歪曲されたものになってしまうということです。

そういう意味でも、なぜコース形而上学の学びと理解が重要なのか?ということについていえば、いわば当然のことだといえます。


コースでは何が語られているのか?

では、コースではいったい何が語られているのでしょう?

ということでいうなら、コースは、私たちの無意識の深層心理の部分について、もっといえば、意識化されていない自我の力動について、心理学的に詳細に述べられていると言うことができます。

どういうことなのか?というと、私たちはコースを通して私たちの無意識レベルの自我の力動論について理解する必要があるのだということです。

実際に、コース形而上学を深く理解するようになってくると、いかに私たちは無自覚に自我の思考システムのプログラムに突き動かされているか!そしてそれがいかに狂った思考システムであるか!が認識できるようになっていきます。

さらにいえば、コースは、自我の起源についても教えてくれています。

神の子であった私たちは今や、ワンネス(神との一体性)の状態から分離の世界であるこの宇宙物理的空間の世界へとさまよい込んでしまっているわけですが、

その原因は何なのか?
そして、
どのようなプロセスをたどって、こうなるに至ったのか?

コースでは、そのようなことについても教えてくれています。

どのような分離のプロセスをたどってきたのか?

それを知ることがなければ、私たちはどうやってもともとの一体性(ワンネス)であるわが家へと帰っていくことができるというのでしょう。

そしていえるのは、私たちはわが家に帰ることを、夢から目覚めることを望んでいるからこそコースを学んでいるわけですが、だからといってそう簡単に「はい、分離は起きていません、幻想でした」というふうにはいかないということなのです。

ようするに、私たちは心を訓練していく必要があるのであり、そのためにもコース形而上学をしっかり理解する必要があるのです。

そう、私たちはコースの学びと実践を通して、その下降してきた分離のプロセスを遡って、ワンネス(神との一体性)に帰っていくのだということです。

そのプロセスを逆に辿っていく以外に帰り道はないということです。

「はい、聖霊(イエス)を選び直します。だから聖霊(イエス)よ、どうか天国のわが家に連れて帰ってください」というような実践をしていったところで神のもとに帰れるわけではないということです。

まるで魔法のように、一飛びに一気に神のものとに帰れるわけではないということです。

そこには訓練を要するのであり、そのためにしっかりとしたコース形而上学の理解と、それに基づいた訓練(実践)を要するということです。

その学びのプロセスは、地道に一歩一歩でしか進んでいかないということを覚えておきましょう。

その学びのプロセスは、コース形而上学の学びと理解、そして、その理解に基づいた実践をしていくことによって、コース形而上学のさらなる深遠な部分が理解されていく、、、といった具合に進んでいくと言っていいでしょう。

まさに、形而上学の「学び」とその理解に基づいた「実践」の両輪の繰り返しが、私たちに求められているということです。

コースの学びのプロセスは、その両輪によって深化していくことを知っておきましょう。


コースの実践はどういうものなのか?

コースの実践においては「赦し」をしていくわけですが、実際に、「赦し」は何をしていくのか?について私たちは学ばなければならないわけです。

実際に実践的なことについていえば、そこには「赦しの3つのステップ」と呼ばれるものがあるということを覚えておきましょう。

たとえば動揺したとき、

この人のせいで、この状況のせいで、この環境のせいで、、、というふうに自分の外側のせいにするのではなく、

これは(心の)自分がただ外側に投影しているだけなのだ、、、と気づいていくこと、それがまず一つ目のステップです。

そして、二つ目のステップとして、投影の源である内側を見る(心に戻る)ことをしていきます。

動揺しているのならば、それは「心(決断の主体)」の自分が自我の思考体系を信じているからであり、

つまり、「心(決断の主体)」の自分が平安(聖霊)の教師を選ぶ代わりに、分離(自我)の教師を選んでいることが誤りだったのだ、、、ということを自覚/認識していくのです。

「心(決断の主体)」の自分が自分にこれをやっている、つまり、自分で自我(分離)の教師を選んでいるということが自我/認識されるとき、自我と自我の思考体系が作り出したすべてが虚偽であることがはっきりと認識することができます。

そう、それを、「赦し」「奇跡」と呼んでいるのだということです。

「赦し」の視点に戻る訓練をしていくには、上記のように一つ一つのステップ(階段)を辿っていくということです。

その一つ一つのステップを踏み外さぬように辿っていくためにも、私たちは心の分離(4つの分裂)のプロセスをしっかり明確に理解しておく必要があります。

それはなぜなら、来た道を通って帰る以外に道はない、つまり、その一つ一つのステップを辿っていく以外に真の原因に戻る道はないということです。


この世界の思考に入り込む道がただ一つであったのと同じように、そこから抜け出す道もただ一つである。(T-7.Ⅶ.10:9)

奇跡講座/中央アート出版社


それは、けっしてイエス/聖霊が魔法使いのように連れ帰ってくれるようなものではないということです。

私たちは、自分で下降してきた分離のプロセスの階段を思い出し、そして、その階段を自分で上って(戻って)いく訓練をしていく必要があるのです。

コースのイエスは、「私がいるところまで戻ってきなさい。私がいるところに来なさい。そして、私と共に見なさい。」と云っています。

イエス/聖霊は、どこから見ているのか?

私たちは、その視座(視点)を思い出し、そこへと戻っていく必要があるということです。

でも、私たちは、その視座(視点)へ戻るための階段をすでに忘れてしまった状態になっています。

だからこそ、その階段を思い出していくためのコース形而上学が必須なのだということです。

私たちは自我と同一化していて、今や自我になってしまっています。

その自我の巧妙な精神力動ついて理解していくこと、そして実践においてそれを自覚/認識していくこと、それが自我から脱却していくための方法なのだということを覚えておきましょう。

自分はどんなふうな考えを抱いているのか?
自分はどのように知覚しているのか?

それを認識していく、、、気づいていく、、、

そういうことを自覚/認識していくことが重要なのだということです。


コースの心理学的な側面を理解する

コースの形而上学を理解するということは、いわゆるコースの心理学的な側面を理解するというふうに言うことができます。

理解しておくと良いのは、このコースは一元論の霊性の道でありながらも、このコースはまさに「心理学」なのだということです。
(それこそが、コースの特徴的なところだといえます)

ですから、コースの心理学的な側面を理解せずに、コースの学びと理解はあり得ないと言うことができます。

むしろ、コースの心理学的な側面の理解なしで、つまり、コースの形而上学の理解なしで、どうやってコースの実践ができるというのでしょう。

でも、しっかりとコース形而上学を学び、その理解が深まっていくならば、コースの赦しの実践ができるようになっていくだけでなく、コース学習者である私たちがゴールとしている実相世界への階梯(橋)が見えてくるようになっていきます。

自分は何者で?
何のために?
どういう考えのもとに?
どのようなことをしていけばいいのか?
それをしていくことによってどうなるのか?

そういうことにつて学んでいくのがコース形而上学の学びであり、私たちはそれを根付かせていく必要があるのだということです。

ようするに、

コース形而上学の理解がなければ、その形而上学に基づいた実践もないわけで、ひいては、実相世界への階梯を上っていくこともあり得ないということです。

コースを実践していくためには、それを実践していくための土台となるコース形而上学の(理解)が絶対に欠かせませんし、最終的には、コースの形而上学を(思考体系)を完全に根付かせていくことが、このコースの学びと実践の目標とするところだといえます。

以上、コース形而上学の学びとそれを理解していくことがいかに重要かということがお分かりでしょう。

コースを通して本気でワンネスに目覚めていこうと思っているのであるならば、コースの形而上学をマスターすることは絶対に不可欠なのだということをしっかりと肝に銘じておきましょう。


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