見出し画像

正しい知覚(真の知覚/ヴィジョン)を修得していくことを目指して


それは何のためのものか?

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践における考え方において、その特徴的なところは目的で見ていくというところにあるといえます。

いわゆる、それは何のためか?というところにフォーカスしていくということです。

あなたが確信を持てない状況にいるときにまず最初に考慮すべきことは、端的に言えば、「私はここから何を望んでいるのか。 それは何のためのものか」ということである。 ゴールを明確にすることが最初にすべきことである。 それが、結果を決定するからである。(T-17.Ⅵ.2:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社

それは何のためのものか?

その目的は何か?

日常におけるコースの実践においては、そこにフォーカスしていくということです。

ただし、自我はそこにフォーカスさせないようにするということについても学ぶ必要があります。

つまり、自我は、外側の世界の形態に差異(相違)を知覚させることによって、目的を分からなくさせるということです。

そう、もし形態に差異(相違)のほうにフォーカスが向かうならば、もはや目的で見ることができなくなってしまうことは避けられません。

形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。(T-22.Ⅲ.6:7-8)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちが覚えておかなければならないのは、この世界には、目的は二つしかないということです。

一つは、
自我の目的で見るか?

もう一つは、
聖霊の目的で見るか?

ようするに、

私たちはこの世界をどちらの目的で見るのか?

それが、コースの実践において私たちに問われていることであり、コース学習者の私たちが重要視していくものなのだということです。


投影か?奇跡か?

自我の目的は、この世界の夢を見続けることであり、この世界に釘付けにしておくこと、です。

その目的のために、自我はいかなる手段も使います。

そのもっとも典型的なものが、「投影」です。

自我は「投影」することによって、私たちが外側の世界に焦点を当てる(フォーカスする)よう仕向けるわけです。

それによって、世界の夢の中にますます根付いていくことになるからです。

一方、聖霊の目的は、「私たちが見ているこの世界は夢であり、実在していない」ということを思い出していくことを目的としています。

そのための手段としての実践が、「赦し」です。

赦しの視点(聖霊の視点)から見るならば、すべてが虚偽だと分かります。

それをコースでは「奇跡」と呼んでいます。

奇跡とは訂正である。 それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。 (W-pII.13.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社

つまり、コース学習者の私たちは、その「奇跡」という手段(方法)を使ってこの世界の夢から目覚めていくことを目指しているということです。

そのような意味で、このコースは、

「ア・コース・イン・ミラクルズ/奇跡のコース/奇跡講座/奇跡の道」

というふうに呼ばれているということです。


自我の目的か?聖霊の目的か?

上記でも述べましたように、コースは目的で見ていくことをしていくわけです。

その目的は、

自我の目的か?聖霊の目的か?

そのどちらかしかないということです。

覚えておかなければならないのは、私たちは必ずそのどちらか一方を選んでいるということです。

そして、それらはお互いに相互に排他的であり、どちらも選んでいない(ニュートラル)状態というのはないということです。

ちなみに、

自我の目的か?聖霊の目的か?

という言い方をしますが、

コースの学びと実践においては、ほとんど「目的」を「教師」という言葉で置き換えて言っているということを知っておくと良いでしょう。

つまり、
自我を教師とするのか?聖霊を教師とするのか?
というふうに、です。

そういうことを踏まえた上で、実際に自分自身を観察していくならば、通常のほとんどが自我の目的で見ている(知覚している)、つまり、自我を教師としているのを自覚/認識することができます。

私たちは無自覚に、気づけばいつも自我と同一化しており、自我の目的からすべてを見ていることが明らかになるわけです。

つまり、私たちはいつのときも自我を教師としている状態になっているということです。

まずは、そのことを自覚/認識していくことが実践の第一歩だといえます。

というのも、「自分は自我の目的を選んでいる、自我を教師としている」と自覚していくとき、私たちは、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直すことが可能となるからです。

それをコースでは「奇跡」と呼んでいます。

そう、私たちはその”奇跡を行う者”(T-2.Ⅴ)として実践(訓練)をしていくことが求められているわけです。

奇跡は何もしない。するのは、取り消すことだけである。そのようにして、すでに為されていることに対する妨げを無効にする。(T-28.Ⅰ.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社

自我の目的か?聖霊の目的か?

それは、

自我または聖霊のどちらかと同一視するか?

ということでもあります。

自我の目的から聖霊の目的へとその目的を変えていくとき、この世界は正しい知覚の仕方を学んでいくための「教室」となるということを覚えておきましょう。

そういう意味で、このコースは正しい知覚へと訂正していくための霊性の道だと言うことができます。

正しい知覚とは、「聖霊のヴィジョン」「全一なる知覚」「無垢なる知覚」「真の知覚」とも呼ばれていて、その知覚が当たり前の見方になるまで、私たちは訓練をしていくということです。

ようするに、コースの学びと実践を通して私たちは何をしていくのか?

というならば、

正しい知覚(真の知覚/ヴィジョン)を完全に修得することを目指しているのだということです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?