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幸せ、平安になりたいのであるなら、その第一歩は、裁き、咎め、攻撃を正当化しないことです


誰がこの夢を見ているのでしょう?

実際に私たちが正直になって自分の内側を観察するならば、裁き、咎め、攻撃がやめられないのが自覚できます。

事あるごとに、他者を裁き、咎め、攻撃しているのが認識できます。

さらには、それを認識しながらも、自分はそれをやめることができません。

裁きたくてしかたない、咎めたくてしかたない、攻撃したくてしかたない、その衝動がおさまらない自分を自覚します。

私たちはこの世界の誰か、何かといつも闘っていると言うことができます。

それが何を意味するのか?

というならば、ようするに、闘う対象を外側に必要としているということです。

裁く、攻撃する、咎めるという欲求を叶えたくて仕方ないのです。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることが理解できるようになると、そのような自分の内側の「自我の力動」を自覚するようになるといえます。

そこで私たちが知っておかなければならないのは、そのような心の力動は個人的なものではないのだということです。

つまりは、この世界にいる誰もがその「自我の力動」によって突き動かされているのだということです。

なぜなら、この世界にいる私たちはみんな同じ一つの自我(の思考体系)によって作り出された夢の産物(登場人物)であるからです。

私たちが知覚しているこの世界は、そういう世界なのだということです。

そのことについてコースでは、以下のように述べています。


あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。(T-13.in.2:2)

奇跡講座/中央アート出版社


誰がこの世界の夢を見ているのでしょうか?

誰がこの世界の夢を作り出したのでしょうか?

それは、他ならぬこの夢を見ている者(主体)以外の誰でもありません。

その「夢を見ている者」を自覚していくことが、このコースの実践を通して、私たちに求められていることなわけです。

私たちは肉体(身体)としての個人の自分と同一化してしまっていて、その自分を自分だと信じています。

それによって、本当の自分は「夢を見ている者(心)」なのだということをまったく忘れた状態になっています。

それを、コースでは、心を忘れた状態(マインドレスネス)と呼んでいます。

私たちは、いわゆる、健忘症(記憶喪失)状態なのだということです。

ですから、私たちはコースの学びと実践を通して、「夢を見ている者」の自分、つまり、「心」の自分を思い出していくことを目指しているのだということを知っておきましょう。


裁き、咎め、攻撃を正当化しない

自分は「心」である、自分は「夢を見ている者」である、と自覚していくとき、

その「心」の自分が何をしているのか?どういう状態になっているのか?

私たちは、そのことをはっきりと自覚/認識していくようになります。

ようするに、その「心」の自分は外側に罪を見ていたい、罪人を見ていたい、というまさに狂った状態になっていることが自覚/認識されていくということです。

いわゆる、自我(の思考体系)と同一化してしまって、自我になっていることが自覚されてくるといえます。

その自我は、裁き、咎め、攻撃がやめられません。

自我はそうすることで、自分の内側に罪を見なくて済むからです。

それゆえに、この外側の世界に投影せずにはいられないのです。

でも、真実は、自分以外の誰かがいるわけでもなく、心の自分は外側の世界に「投影」しながら、毎瞬毎瞬、自分自身を裁き、咎め、攻撃しているだけなのです。

なんという狂気でしょう!

なんて愚かなのでしょう!

裁き、攻撃は自分自身を傷つけるものでしかないことを認識するならば、誰が裁きや攻撃をOKとするでしょうか。

だからこそ、コースのイエスは、そうしている自我を正視しなさい、直視しなさい、と教えてくれているのです。

ただ、そこで知っておかなければならないのは、コースの実践は、裁かない、咎めない、攻撃しない、という訓練なのではないということです。

そうではなくて、裁きたくなる自分、咎めたくなる自分、攻撃したくなる自分、その自分(自我)を咎めずにありのままに見る、という訓練をしていくということです。

いわゆる、それが「自我を咎めずに見る」という実践です。

裁いている自我(自分)、咎めている自我(自分)、攻撃している自我(自分)を、そうじゃない自分(自我)になろう(変えよう)とするなら、自我と闘うことになるだけだということを知っておくと良いでしょう。

そうするならば、自我(嘘の自分)にパワーを与えるだけです。

裁かない自我になろう、咎めない自我になろう、攻撃しない自我になろうとしても、その自我はどこまでいっても自我のままであり、自我でしかありません。

もっといえば、そもそもがその自我(自分)こそが実在していないのです。

私たちがしていくことは、裁き、咎め、攻撃を正当化しないということです。

つまり、自分は自我になってしまっていることを認識して(受け入れて)いくということです。

その自分(自我)を咎めずに見る、ということが、私たちがしていくべき訓練なのです。

自我と同一化していた自分が自覚されるようになるとき、それを見ている(観察している)自分は、自我との同一化から離れていくことになります。

要約するならば、

裁き、咎め、攻撃したくなるときどうしたらいいか?

ということについて大事なことは、

裁き、咎め、攻撃したくなる自分(自我)に気づいたなら、まず、それがどんなに形態において正当な理由であれ、正当化しないことです。

そして、その自我を咎めずに見る、ということです。

咎めず、裁かずに見ることが大事なのです。

それが、自我から脱却していくための第一歩です。

咎めず、裁かずに見るならば、自我はその力(パワー)を失っていきます。

実践して分かることですが、自我を咎めずに見ていくことすらも、じつは訓練が必要であり、そう簡単にできることではないといえます。

でも、そうしていくことが幸せ、平安への第一歩なのだということを忘れないで、コースの学びと実践に励んでいきましょう。


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