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赦しの3つのステップについて


赦しの3つのステップの手順と目的について

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の赦しを実践していくにあたっては、「赦しの3つのステップ」というのが基本にあります。

ただし、実際に赦しの3つのステップの実践を試みて分かるのは、まずはその第1ステップですらもなかなか難しいということを知っておくとよいでしょう。

赦しの実践では、動揺したとき、その動揺を使ってそれが投影であると気づいて、その原因である内側に戻っていくことをするわけですが、はじめからそう簡単にできることではないということです。

赦しの実践をしていくうえで、まずその第1ステップが難関ポイント(盾)となるということです。

私たちは自分の内側にある闇(動揺)を見るということをしていくわけですが、なにせ、まずは、内側を見ようとしない、内側に戻ろうとしない自分(自我)を認識することになります。

というのも、自我と同一化している私たちにとって、内側を見ること、つまり、忘却のベールを超えて心(原因)に戻っていくことは何よりも恐れていることだからです。

実際の実践では、私たちはそれを「内側を見ることの恐れ」(T-21.Ⅳ)として感じるわけです。

でも私たちが覚えておかなければならないことは、内側を直視せずして、そして闇(罪、罪悪感、恐れ)を見ず(直視せず)して、赦しはあり得ないということです。

(ときに、この世界は幻想だからと自分に言い聞かせようとしたり、この世界はすべて愛なのだと自分で想像してそのように見ようとしたりして、内側にあるものを見ようとはせずに、赦しの実践をしたつもりになっていることがあります。そのようにして私たちは否認、抑圧、隠蔽するので、そのことに私たちは十分警戒すべきです。)

それでも、自我についてよく理解していって、そしてその自我の力動を認識していくことによって、次第に赦しの第1ステップから第2ステップへとスムーズに実践できるようになっていきます。

具体的な実践でいえば、外側の誰か何かのせいにして内側を見ようとはしない自分、思考をぐるぐる回して内側に戻ろうとしない自分、あるいは、攻撃、裁きが止められない自分など、自我を手放そうとはしない自分を認識していくということです。

そうしていくことによって、次第に、内側に戻って、内側にあるものを見る(正視する)ことができるようになっていきます。

では、私たちは内側の何を見る(正視する/直視する)べきなのでしょう?

というなら、私たちが見るべきものとは、内側にある感情、感覚、それらに伴う思考(想念)信念、記憶といったものです。

それらを一つ一つ見つけ出していくことをしていきます。

というのも、それらが「愛を阻む障壁」であるからです。

それらは、明るみにされていくことによって、その力(パワー)を失っていきます。

その実践をコースでは、

自我(幻想)を直視する、
自我(幻想)を聖霊と共に見る、
自我(幻想)を聖霊のものとに運ぶ、

というふうに呼んでいます。

私たちがしなければならないことは、この第2ステップまで、です。

ちなみに、この第2ステップにおいて大事なのが、

「それらすべては自らが作り出したものであり、自らが願望したその結果として、これら(感情、感覚、思考)を体験しているのだ」

ということを思い出す(自覚する)ことだといえます。

つまり、”自分で自分にこれをやっている”(T-27.Ⅷ.10:1)ということを自覚/認識することがその秘訣だということです。

コース形而上学的にいえば、「(心の)決断の主体」と呼ばれている場所に戻る、ということです。

そのために、内側にあるすべての「愛を阻む障壁」を正視するわけですが、もっといえば、それらすべてを疑問視していくということです。

そうするとき、私たちは自我を教師とする代わりに、聖霊を教師として招き入れたことになります。

疑問視するとは、価値判断を明け渡して「愛を阻む障壁」を見るというふうに言うことができます。

ここまでが第2ステップです。

第3ステップは、聖霊に明け渡して、あとは静かになって、ただ見て、じっと待つ、ということをします。

そうするとき、答えは自らの内側からもたらされることになります。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pⅡ.1.4)

奇跡講座/中央アート出版社

”自分で自分にこれをやっている”ことを自覚したところから、「愛を阻む障壁」を見るならば、それらがいかに馬鹿げた虚偽であるかが明らかになります。

そして、そのとき、平安がもたらされるとも共に「赦し」がなされることになります。

形而上学上では、「聖霊が取り消してくれる」というふうに私たちは学びますが、実際のところからいえば、自分の中の正しい心(正気/聖霊)の部分からの答え(真の知覚/真実)がもたらされるということです。

(コースではそれを「聖霊の答え」「聖霊のガイダンス」という言葉で表現しているということを知っておくと良いでしょう。)

聖霊がもたらす答えとは何か?

というなら、真の知覚(ヴィジョン/心眼)です。

それは、「赦しのまなざし」「愛のまなざし」というふうにも言います。

その真の知覚を修得(マスター)するために、コース学習者の私たちは赦しの実践をしていくのだということを覚えておきましょう。


闇を通り抜けていく "Going through the darkness."

赦しの実践をしていく上でもっとも大事なことは、否認、隠蔽をしないことだといえます。

言い換えるなら、私たちは「正直さ」が求められているということです。

つまり、私たちは自分の内側に正直になっていかなければならいないということです。

ようするに、見たくない内側の闇を見なければならないということです。

もし内側の闇を見ずして「赦し」を実践しているとしたなら、それは、否認、隠蔽しているだけだということを知っておきましょう。

というのも、私たちコース学習者は、その実践においてよくそういうことをしてしまうからです。

そのことについて、ワプニック博士は、以下のように言います。

「闇を通り抜けなければ、光に到達できません。幻想を通り抜けなければ、真理に到達できません。なぜなら、闇の向こう側にこそ光があるからです。それらを超えて通り抜けていかないかぎり、それ以外のどこにも光はありません」と。

私たちは闇を通り抜けて(Going through the darkness)いかなければならないということです。

というのも、闇があるところにしか、光、答えはないからです。

にもかかわらず、私たちは何をしているか?というなら、

闇を避けて、(ニセモノの)光、愛といったものばかりを追い求めている、

ということです。

闇を直視することなく、闇を通り抜けなくとも、それ以外のどこかに救い(光/愛)があると思っているのです。

光/愛は、ただ闇で覆い隠されているだけというのに、です。

もっといえば、闇があるところにしか本当の光/愛はないのに、私たちは全く分かっていないと言うことができます。

私たちがしなければならないのは、その闇を直視して通り抜けて(闇を取り消して)いくことなのだということを覚えておきましょう。

そう、(真の)光や愛は闇を超えた(看過した)ところにあるのであり、闇があるところ以外に光や愛があると思っているとしたなら、まだまだ自分は学ばれていないことを自覚しましょう。

闇を通り抜けることなく、光に、真理に到達することなどあり得ないということです。

私たちは、なかなか内側の闇を見ようとはしません。

内側を見ることをとても恐れています。

それが何を意味するのかというなら、それは、幻想を実在させておきたい、ということであり、「このまま自分は自我を教師としてこの幻想の夢を見続けていたい」ということの声明にほかならないということです。

コースの実践者である私たちはそういうことを理解していくにつれて、やがて内側を見ることができるようになっていきます。

それは地獄と天国のどちらを取るのかの選択なのだから、軽々しく扱ってはならない。(T-19.Ⅱ.8:5)

奇跡講座/中央アート出版社

自我を教師としたままでいることが、どういうことを意味するのか?

それは、苦痛、苦しみの夢を先延ばしにしたい、ということです。

そういうことを理解していくとき、そして内側にその自分を認識していくとき、その実践はもっと妥協のないものになっていくといえましょう。


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