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時間の中にいる私たちにとっては、目覚めに至るまでのプロセスがある

一瞬にして目覚めるわけではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいる私たちがしていく実践とは、「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」ということだといえます。

それというのも、私たちはすでに自我を教師としてしまっているので、まずはそのことを自覚/認識して、それを訂正していく必要があるわけです。

私たちは「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」という訓練を通して、聖霊の視点(ヴィジョン)、つまり、正しい知覚(真の知覚)を学んでいくだけでなく、それを修得していくのだということです。

そのための実践的な手段を、「赦し」と呼んでいるということです。

聖霊の視点(ヴィジョン)というものがどういうものか?

それは、赦しの実践を通して学ばれていくことになります。

そのとき、私たちは聖霊(の愛)に触れていくことになります。

そこから見ている知覚を「赦しのまなざし」「愛のまなざし」と呼ぶわけですが、それが私たちが修得していくべき真の知覚なのだということです。

真の知覚の経験を重ねていくことによって、ますます正気の思考体系(聖霊の思考体系)へとシフトしていくと同時に、これまで私たちがいかに奇跡(赦し)ではなく殺害(裁き)のほうを選択していたか!ということに、より自覚的になっていくといえます。


神の愛に支えられていながら、奇跡か殺害かの選択を難しく思う者がいるだろうか。(T-23.Ⅳ .9:8)

奇跡講座/中央アート出版社


聖霊の愛に触れていくことによって、つまり、真の知覚を思い出していくことによって、ますます神の愛を望むようになっていくわけです。

つまり、聖霊(神)の愛に触れていくその経験が、さらに妥協のない実践へのモチベーションとなっていくということです。

最終的に、それ以外をもう望まない、となっていくことが私たちが目指しているゴールだといえます。

そう、今や私たちは自我と同一化して、自我になってしまっているからこそ、聖霊(正しい心)を選択し、聖霊と完全に同一化していくことが私たちに求められているのだということです。

聖霊と完全に同一化することを、コースでは「贖罪」と呼んでいます。

コースの赦しの実践を通して、私たちはその贖罪を受け入れる練習をしているのだといえましょう。

そこで覚えておかなければならないのは、「贖罪を受け入れる練習をしている」ということは、言い換えるならば、そこにはプロセスがあるということです。

私たちは一瞬にして、いきなり、この夢から目覚めるわけではないということです。

私たちが理解しておくべき重要なことは、むしろ、私たちはそれをとても恐れているのだということです。

私たちは、神の愛をひどく恐れています。

ですから、この時空間の中では、私たちは長期的な赦しのプロセスを経て、贖罪の瞬間へと歩んでいくのだということを知っておきましょう。

つまり、この歩みにおいては、目覚めに至るためのプロセス(段階)があるということです。

そういう意味でいえば、

私たちは、赦しの実践を通して何をしているのか?

というなら、

私たちは、赦しの実践を通して聖霊の愛に触れながら、つまり、神の愛に支えられながら、贖罪を受け入れるためのその準備を整えているのだと言うことができるでしょう。


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