問題は認識しないかぎり訂正はなされない
自我を咎めずに見る
私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で何を学んでいるのか?
というならば、
自我(の力動論)について学んでいるのだといえましょう。
というのも、私たちは自我についての理解が深まっていくにつれて、自我がしていることがはっきりと認識できるようになっていくからです。
実践においては、私たちはその自我を認識して、その自我を咎めずに見るという訓練をしていきます。
というのも、自我が問題なのではないからです。
自我を信じているということが問題なのです。
ですから、自我を信じていることを自覚/認識していくこと、そして、それを咎めずに見ることが私たちがしていく実践なのだということです。
それをコースでは、「聖霊(イエス)と共に見る」という言い方をします。
そしてそれが、聖霊を教師として選び直すということであり、それが私たちがしていくことなわけです。
ちなみに、「聖霊を選ぶ」と言うとき、それは文字通りの意味ではないということを知っておきましょう。
「聖霊を教師とする」とは、つまりは、自我を教師とすることをやめることがその実践なのだということです。
ここで大事なことは、自我を信じているのを訂正するには、そのためにまず、自分は自我を信じている、というそのことを認識しなければならないということです。
つまり、自我を教師とするのをやめるためには、その前に、自分はすでに自我を教師としている、ということを自覚/認識せねばならないということです。
ようするに、いわゆる「答え」を選択するのではなく、その前に、私たちは問題を認識しなければならないということです。
問題が何かを認識しなければ、その訂正ができないということです。
問題が何かが認識されないかぎり、訂正はなされないのだということです。
それは、理論的にはごく当たり前のことです。
ただし、実践してみれば分かることですが、実際のところ、それがなかなか難しいということです。
問題を認識しようとはせずに、つい、答え(聖霊)のほうばかりにフォーカスが向かってしまうからです。
それによって、真の問題は隠されたままになってしまうのです。
なぜそうしてしまうのか?
というなら、私たちは自我と同一化していて、その自我の精神力動によって突き動かされているからです。
ですから、私たちには「自我の力動論」についてしっかり理解してくことが求められているわけです。
そのためにコース形而上学の学びと理解が必須なのだということです。
それによって、私たちは自我に気づけるようになり、自我からの解放が可能となるのだということです。
必ず原因に戻っていくこと
私たちにとって、真の問題とは何か?
というなら、すべての問題の原因は、自我(の分離の思考体系)を信じていること、それが問題なのだということです。
だからといって、ただむやみに「自我を信じるのをやめる」「自我を信じない」ということをしていくのがコースの実践なのではありません。
自我を否定していくのでもなければ、聖霊を選べばいいということでもないということです。
そうではなく、自我を信じたがっている、あるいは、自我を選択したがっているのを自覚/認識していくことが重要なのだということです。
なにせ、それは自覚されていない無意識の部分の精神力動なので、学びと訓練がなされていないかぎり、なかなか自覚/認識することは難しいのだということです。
とはいえ、それは直視(正視)されないかぎり、その訂正はなされないわけです。
私たちがわきまえておかなければならない重要なことは、聖霊を選び直すそれ以前に、「自分は自我をすでに信じている」ということを自覚せねば(見つけ出さなければ)、訂正のしようがないということです。
問題の原因が明らかにならなければ、訂正がなされることはないということです。
要は、自ら自分で信じている(決断した)というところに戻らなければならないということです。
自分に正直になって心の中を直視(正視)していくなら、
”自分で自分にこれを行っている”(T-27.Ⅷ.10:1)、、、つまり自分からあえて自我を信じようとしている、、、
そのことが自覚/認識できます。
すべてはでっち上げた幻想(虚偽)であるにもかかわらず、それらを信じている、あるいは、信じようとしている精神力動が明らかになります。
それが、すべての原因であり、そこ(原因)でこそ訂正は可能なわけです。
「自分で自分にこれ行っている」ということを自覚/認識していくとき、私たちは、自分が無力な存在ではないということに気づくようになります。
そのようにして、自分は選び直すことができる、選び直す選択の力がある、ということが思い出されていきます。
つまり、自分は決断し直すことのできる心(決断の主体)なのだと自覚されていくわけです。
そこから自我を眺める(正視する)なら、もはやそこには深刻さはありません。
そこには、この世界とは一切関係ない平安があります。
聖霊と共に見ている状態/聖霊を教師としている状態とは、そういうものだといえます。
いわゆる、そこから見ているときが、コースで「奇跡」と呼んでいるものです。
それが、聖霊/イエスを教師として選び直した状態なのだということです。
コースではその瞬間を「聖なる瞬間」と呼んでいます。
なぜなら、その視点とは、時間の超えた「いま」に戻った瞬間でもあるからです。
最終的には、毎瞬毎瞬を「聖なる瞬間」としていくことが、コースの学習者である私たちがしていく実践(訓練)となります。
それによって、私たちは、時間と空間を超えた「永遠なる今」に本当の自分(真の自己)は居るのだということを自覚/認識していくようになります。
そのための手段が「赦し」なのだということです。
つまりは、私たちはその「赦し」「奇跡」を通して、時空の外、夢の外に居る真の自己を思い出すことをしているのだということです。