「自分は目覚めていて、あなたは目覚めていない」ということなどあり得ない
この世界の中に悟った者、目覚めた者などいない
この世界に住む誰もが、自分はこの地上に生きている、つまり、この世界の中に自分は存在しているというふうに知覚しています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から言えば、そのように知覚しているということ自体が、つまりは、夢を見ている、ということであり、そして、夢に入り込んでいる、ということです。
そうであるならば、私たちはその知覚を訂正していく必要があるということです。
たとえ「この世界は夢(幻想)である」と分かっていたとしても、それではまだ不十分だということです。
巷にはときどき、真理(実相)を一瞥したとして、「自分は悟った、自分は目覚めた」と言っているノンデュアリストたちがおられたりします。
でも、コースの観点から見るならば、そのような体験は、目的地を垣間見ただけ、という位置付けであり、まだ目覚めているわけではないと捉えます。
それは、ただ単にわが家を垣間見ただけであり、実際のところ、そこからがわが家への帰還の訓練のはじまりだといえるでしょう。
では、どのようにして私たちはわが家へ帰還していくのか?
というなら、この世界の夢の中でその在り方を体現していくことによって、ということになります。
ここが完全なる天国であること、
さらには、
天国において私たちは一つ(ワンネス)であること、
そういうことをこの世界に反映したものの見方、考え方へと、つまり、真の知覚へと訂正していくことによって、それは成し遂げられるということです。
要は、この(肉眼の)世界を知覚している間は、この世界を使って、学ぶべきこと、そして成すべき訓練があるのだということです。
真の知覚(聖霊の視点)から見るならば、この世界の中に悟った者、目覚めた者などいません。
そもそもがこの世界は無(非実在)であるというのに、どうしてそのような者がいるというのでしょう。
外側に世界など無いならば、もちろん、外側には誰もいません。
自分以外の誰かがいるわけではないならば、誰かが悟っていて、誰かが悟っていない、ということなどあり得るでしょうか。
言うまでもなく、神のひとり子の自分がいるだけです。
その真の自己は、この世界の夢の外側にいます。
そこから見るなら、この世界は無であることはもちろんのこと、この世界に「悟った人」などいないということは明らかです。
それこそが、純粋な非二元の教えであり、コースが教えていることです。
「自分は目覚めた」というスタンスでノンデュアリティについて語るスピーカーさんもおられたりしますが、彼らもまたこの(二元性の)世界に入り込んでしまっていると言うことができるでしょう。
本当に目覚めている者は、「自分は目覚めた」「自分は悟った」などと、けっしてそのような表現はしないということです。
私たちが覚えておかなければならないのは、たとえ真理を垣間見たとしても、一瞥したとしても、見性したとしても、この世界を知覚しているかぎり、私たちは真の知覚へと訂正していかなければならないことには変わりないということです。
言い換えるならば、真の知覚を完全に修得するまで、私たちはこの世界を「教室」としていくのだということを覚えておきましょう。
教える者と学ぶ者は同じである
コース学習者の私たちが目指しているのは、真の知覚へと完全にシフトすることだといえましょう。
つまり、それが自然な知覚の仕方になるまで、当たり前になるまで、学びと訓練はなされなければならないということです。
真の知覚とは、どういうものか?
というなら、
それは、自と他の利害の一致している知覚のことであり、いわゆる、”一なるものとしてつながっている一体性”(T-25.Ⅰ.7:1)をこの世界に反映した知覚のことを言います。
つまり、この世界の中においては、私たちは夢の登場人物という意味ではみんな等しく同じである、というふうな知覚を修得していくことを目指しているということです。
そういうことで言えば、ある誰かは目覚めていて、誰かは目覚めていない、というふうな知覚にはけっしてなり得ません。
真に目覚めている者であるならば、「自分は目覚めていて、あなたは目覚めていない」というふうに見ることなどはけっしてないということです。
というのも、もしそのように見ているとしたならば、それこそが二元性(分離)の夢を信じる者たちのものの見方だと言えるからです。
真に夢から目覚めている者であるならば、「分離の想念」を信じることはけっしてありません。
真に夢から目覚めている者は、夢の中の登場人物たち、つまり、兄弟たちについて、彼らを自分と同じ(自分の一部)として見ています。
例えば、目覚めていない兄弟を見るならば、自分も目覚めていないということであり、兄弟が間違っているというふうに見るならば、自分も間違っている、と知覚するわけです。
そのようにして自と他の「共通の利害」を生きる者は、兄弟たちを教師として自分の赦しのレッスンとして知覚しているといえます。
彼らは、この分離の世界の夢を見ながらも、自と他の利害の一致を生きているのです。
そう、それこそが、「分離の想念」から作り出された夢に対しての訂正された知覚の仕方であるわけです。
そして、そのような生き方をしている者を、コースでは「神の教師」と呼んでいるということです。
神の教師はどのような在り方をしているのか?
というなら、自分は夢の中にいる、自分は夢を見ている、と認識しながら、この世界を教室として、目に映るすべてを自らの教師として、そのすべてを赦すためのレッスンとして捉えているということです。
コースを教えている教師(コース・ティーチャー)が、「神の教師」というわけではありません。
手本を示して、つまり、コースを日々実践の中で適用して生きている者こそが、「神の教師」と呼ばれる者たちです。
手本を示していくとは、つまるところ、それは自分に教えているのであり、自分で学んでいるということです。
それが、「自学自習」の真に意味するところであるわけです。
かくいう私も、ぜひとも、そうなっていきたいものです。
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