見出し画像

「私はいない」と「私は在る」

小文字の「self」と大文字「Self」

ノンデュアリティのスピリチュアリティでは、

「私はいない」

という表現をします。

一方、

古典的な非二元(一元論)の教えでは、

「私は在る」

というふうにも表現されています。

「私はいない」と言ったり、「私は在る」というふうに言ったり、

これはどういうことなのでしょう?

そのことについて言うならば、「私はいない」と言うとき、「私は在る」と言うとき、それぞれの「私」はまったく異なる自己なのだということを私たちは理解しておかなければなりません。

その「私」を混同してしまうならば、もはや、とんちんかんな禅問答のようになってしまいかねないということです。

そう、「私はいない」と言うとき、そのときの「私」とは、物理的、精神的な個のアイデンティティー(小文字のself)のことを言っているということです。

一方、「私は在る」と言うとき、そのときの「私」とは、アートマン(真我)=ブラフマン(創造主)である真の自己(大文字Self)のことを言っているということです。

ちなみに、その件についてコースでは小文字の「self」と大文字「Self」として使い分けてあるので、そのことを知っておくと良いでしょう。
(『奇跡講座』/中央アート出版社)の著書においては、大文字のSelfを太文字で自己として表現されているので、わかりやすいと言うことができます。)

つまり、コースの観点から述べるならば、

「私(小文字のself)はいない」=「私(大文字Self)しかいない」

ということです。

それが何を意味するのか?

というなら、

個別性、特別性といったものはなく、一なる者がただ在るだけ、

ということです。

なにせ、私たちは非二元あるいは一元論のスピリチュアリティを「言葉」を通して学んでいくので、「言葉」は象徴の象徴にすぎないということを重々分かったうえで、その言葉の意味に注意深くなって学んでいかなければならないといえましょう。

言葉は象徴の象徴にすぎない。したがって、言葉は実相から二重に隔てられている。(M-21.1:9-10)

奇跡講座/中央アート出版社


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?