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それが虚偽だと知覚されているとき、そこには平安があります
誰が学んでいるのか?誰が訓練しているのか?
コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスにおいては、学びが進むたびに「自分は間違っていた、自分は分かっていなかった」という気づきが起きていくことになります。
言い換えるなら、「自分は間違っていた、自分は分かっていなかった」と認識するときが、学びが進んでいるときだと言うことができます。
そして、そのたびに、そこからが学びのプロセスの次なるステージのはじまりとなります。
そのようにして、コース学習者は学びの階梯(はしご)を上っていくということです。
そのたびに、ここからが学のはじまりであり、ここからが実践のはじまり、というふうになっていきます。
毎回毎回、ここからが新たなはじまりです。
いつのときも、いまここからがはじまりであり、そして、いまここがゴールです。
”奇跡のコースでは、私たちが向かっていた方向が間違っていたことを認識したときに、新たな始まりが起こることがわかります。私たちは今、はしごを上って、下の段に留まらないことを望んでいます。私たちが「別の方法があるに違いない」と本気で言うことができるとき、新たに始まります。 ”
誰が学んでいるのか?誰が訓練しているのか?
というとき、学びが深まっていくにつれて、それは個人の自分ではなく、「心」の自分であるということが自覚/認識されていきます。
その「心」の自分は、ずっと「いまここ」にいるだけです。
「いまここ」とは、この世界とは一切関係ないところ、つまり、この時空を超えたところであり、時間がはじまったところであり時間の終わりの地点でもあります。
本当の自分はそこにいて、その自分がコースの訓練をしているのだということが自覚/認識されていくになります。
それは何の訓練か?というなら、
この世界の夢を見てはいるものの、「これは夢(虚偽/偶像)である」と認識していく訓練なのだということです。
そのすべてが全一に虚偽であるがゆえに、そこには何の判断もいらない、必要ないということです。
そこに判断(ジャッジメント)がないならば、そこには平安があります。
(逆に、そこに平安がないならば、それを虚偽とは見えてはおらず、判断しているということです。)
すべてを包含した平安と共に、ただ気づいている状態。
それが、聖霊、イエスを教師としている状態です。
それをコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「赦し」と呼んでいるわけです。
”赦しは じっと静かにしていて、何もしない。・・・・それはただ見て、待つのみであり、判断はしない。”(W-pII.1.4:1,3)
つまり、コース学習者の私たちは、これまでとはまったく別のもう一つの見方を「赦し」の実践を通して学んでいるのだと言うことができましょう。
そのもう一つの見方こそが、「ヴィジョン(心眼)」と呼んでいるものです。
つまり、その「ヴィジョン(心眼)」を完全に修得することが、コースの赦しの実践を通して訓練していく目的なのだということです。
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