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ワプニック博士のインタビュー記事より

しっかり地に着いた覚者

ワプニック博士のとあるインタビュー記事がとても印象的です。

インタビュアーがワプニック博士に、

「日常の実践で、普段、ワプニック博士が心掛けていることは何ですか?」

と質問した際に、ワプニック博士はこう答えたのです。

「自我と同一化しないようにすることです」と。

ここで、ワプニック博士は、「聖霊と共にいることです」というふうには回答しなかったということに注目すべきだと思います。

つまり、彼の実践(訓練)はそういうものだったということです。

ようするに、その実践(訓練)は、いつも自我にフォーカスされていたということが分かります。

それはどういうことか?

というなら、

「自我と同一化しない」ということは「自我に気づいている」という状態であり、つまりは、それが「聖霊と共にいる」ということなのだということです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学習者である私たちは、そのような相互排他的な考え方というものを修得する必要があります。

なぜなら、私たちがしていかなければならないのは、聖霊にフォーカスしていくことではなく、自我にフォーカスしていくことだからです。

自我(幻想)を観察していかないかぎり、自我を俯瞰している視点を見出すことなどできません。

自我(幻想)を直視していかないかぎり、自我(幻想)が取り消されることはありません。

言葉のうえでは「聖霊と共に見る」「聖霊を教師とする」というふうに学びますが、実際の実践はそうではないということです。

それはワプニック博士にかぎらず、地に着いた非二元を生きている者(覚者)たちの在り方とはそのようなものであると、学びが深化していくにつれてなおさら分かるようになります。

彼らは、愛や幸せといったものにけっしてフォーカスはしていません。

それらは何の問題でもないからです。

逆に、愛、幸せ、喜び、、、あるいはその象徴といったものにフォーカスしている者(スピリチュアリスト/ノンデュアリスト)たちは、崇高なほうへと向かおうとして、何かどこかふわふわしていて、地に着いていない感覚を覚えます。

それがいけないということではありませんが、幻想(二元性)を超えて、幻想世界から目覚めていこうとしているのであるならば、私たちは問題があるほうを認識していかなければならないのだということです。

問題を認識することなく、つまり問題を見ようとせずに、いくら崇高なほう、心地良いほうばかりへと探して求めていっても、そこには何の解決もなければ、その探究に終わりもありません。

なぜなら、問題が認識されないかぎり、問題が訂正されることはけっしてないからです。

問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。(W-pⅠ.79)

私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。(W-pⅠ.80)

奇跡講座/中央アート出版社

真に地に着いた覚者は、自我からの脱却、苦しみからの脱却といったものについて語ります。

なぜなら、自我や苦しみといったものを虚偽として見ていくことが自分たちの唯一の機能であることを知っているからです。

ここですべきことはただそれだけであることを分かっているのです。

そして、それを生きているのです。

そのようになるまでには、もちろん、それ相当の学びと訓練がなされなければ、そうはなれないものです。

それを実践して生きていたワプニック博士は、私たちにとっての手本です。

私たちも、ぜひそうありたいものです。


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