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私たちは自分の内側のどこかで天国の記憶を覚えている

スピリチュアルの探究の旅の果てに

私たちは誰もがみんな、自覚していない無意識の深いところでは天国の記憶を覚えているのだといえます。

その記憶とは、私たちは一つでつながっていた(ワンネスだった)というものであり、幸せと喜びに満ち溢れていたというものであり、完全無欠であったという記憶です。

その記憶を覚えているからこそ、私たちは誰もがみんな「幸せ」を探し求めているのだと言うことができます。

言い換えるなら、この世界の中で「幸せ」を求めていない者などいない、と言うことができます。

ただし、私たちは、

何が自分を幸せにするのか?
幸せとは何なのか?
真の幸せとは?

それがわからなくなってしまっているということです。

それゆえ、私たちのほとんどが外側の世界にその答えがあると信じて疑わず、外側のもので満たそうとする「人生ゲーム」に囚われてしまっているのです。

とはいえ、その中でも物質的なものでは満たされないと気づく者たちは、この世界のものではないところにその答えを求めて、宗教やスピリチュアルの探究の旅を始めることになります。

あらゆる宗教やスピリチュアリズムや自己啓発などに時間とお金を費やして、それでも満たされることのない感覚を覚えながら、スピリチュアルの探究の旅を続けることになります。

そしてやがて、スピリチュアル探究の旅をもう終りにしたい、この時間の旅をもう終わりにしたい、この世界の夢から目覚めてわが家に帰りたい、、、そのような想いにかられるようになるとき、私たちは非二元の霊性の道を歩むようになるといえます。

そのようなプロセスを経て、スピリチュアルの探究の旅の果てにたどり着くスピリチュアリティ(霊性の道)が、このコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)であるといえるでしょう。

そういう意味でいえば、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)はスピリチュアルの旅の最後の終着点だといえます。

コースは、スピリチュアル探究の旅に疲れ果てた者たちのスピリチュアリティ(霊性の道)だといえるわけです。

見方を換えるならば、コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるということは、その準備が整ったからだと言うことができるでしょう。

このコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ぶということは、「この世界には、自分を真に満たしてくれるものはない、この世界に幸せはない、自分が本当に求めているのはそれらを超えた真の幸せ、真の平安である」ということを意識的か無意識的か、どこかで気づいているからにちがいありません。

なぜなら、「どこをさがしても満たされることも、幸せにになることも不可能なのだ、、、」と認識しないかぎり、難解な教えであるコースを学ぼうとは思わないはずです。

「結局はどこにもたどり着かない終わりのない無益な旅を続けることになるだけ」ということに気づいた者たちが、このコースに惹かれていくのだといえます。

そういう意味で言えば、コースという霊性の道を学んでいる者にとっては、自分の内側のどこかで天国の記憶を覚えているからこそ、その「内なる心」に導かれてコースに辿り着くことができた、と言うことができましょう。

コースでは、天国の記憶を覚えているその「内なる心」を「聖霊」と呼んでいます。

それは、誰もの内側にある「正しい心」、つまり真の自己の記憶を覚えている心の部分の象徴を指すものです。

つまり、コースという霊性の道にたどりつくまでにも、その内なる心(聖霊)に導かれていたと言うことができるでしょう。

そして、コースを学ぶということは、その聖霊(正しい心)の導きに従っていくことを意識的に選択したということです。

それは、スピリチュアルの探究の旅の終焉のはじまりです。

それは、魂の旅の終焉のはじまりです。

なぜなら、自分の外側には何も無いことを思い出すことになるからです。

なぜなら、時間というものも無いこと思い出すことになるからです。

それは、今ここ、今この瞬間への距離のない旅のはじまりだといえます。

さまざまなスピリチュアルの探究の旅を経て自分が本当に探し求め続けてきたものは今ここにある、ということを思い出していくそのはじまりです。

コースが教えていることの理解が深まっていけばいくほど、その確信はますます強いものとなっていくことでしょう。


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