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「自分は分かっている」と思っているかぎり、けっして学ばれることはない


自分の狂気さ、無知さ、愚かさを自覚する

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、あるいは、コースの学びを深めていく上で、もっとも気をつけなければならないのは、「自分はコースを分かっている」という想いだといえます。

ようするに、「自分は分かっている」という想いが、逆に、コースの学びを邪魔するということです。

「自分は分かっている」としているなら、コースが学ばれていくことはけっしてないということです。

むしろ、コースが教えていることの理解が深まっていくならば、「自分は分かっていない」ことを自覚するようになっていくといえましょう。

かくいう私も、コースを学びはじめて数年が経ったある一時期、自分はもうコースの教えを分かったと思い込んでいた時期がありました。

その当時は、自分なりにコースを分かったつもりになって、赦しの実践もしていたつもりでいたわけです。
(今思えば、まったくそうではなかったわけですが、そう勘違いしていたのです。)

当時の私といえば、コースの理論(形而上学)よりも(内的な)体験のほうを偏って重視していたように思います。

体験さえすれば真理を理解するわけで、コースの理論(形而上学)なんて必要ないというふうに思っていたのです。

それというのも、私自身がさまざまな覚醒体験をしたこともあったせいもあって、もう自分は分かっているという勘違いをしていたということです。

実際は、その先の「悟りの完成」のために、学ぶべきこと、訓練していくべきことがあるというのに、それがまったく分かっていなかったということです。

ようするに、「自分はコースを理解しているから、もう学ぶものなどない」と思っていたということです。

そんなとき、あるご縁があって、ワプニック博士がコースを解説した教材で学んでいく機会に恵まれたのです。

それが、その転機のきっかけでした。

最初は、「今さらコースの理論(形而上学)を学んでも、、、」という想いもありながらも、渋々仕方なくコースの形而上学(理論)を学びはじめたのでした。

なにせ、自分はコースの教えなんてもう分かってると思っていたわけですから。

ところが、実際に、いざワプニック博士の教材で学びはじめると、自分はコースをまったく違うふうに解釈して分かったつもりになっていたことにようやく気付かされたのです。

私自身にとって、それはまさに青天の霹靂(へきれき)でした。

私はそのときにはじめて、「自分はコースを分かってもいなければ、ましてやコースを学んでなどいなかった、私はコースの学習ではなかった」ことを自覚したのです。

自分は今まで何を分かっていたのだろう!?という感覚です。

今思い返すと、そのときからが、私自身にとって本当の意味でコース学習のはじまりだったと言うことができます。

それからというもの、コースの教えを理解していけばいくほど、(ワプニック博士の解説を理解すようになればなるほど、)「自分は分かっていない」ことをますます自覚するようになっていったのでした。

今となっては、むしろ、「自分はコースから学ぶべきことはまだまだある」とさえ感じています。

もはや「もうコースを分かった、理解した」というものとはまったく真逆のスタンスになっていったといえましょう。

「自分はコースをもっと学んで、完全に修得するまで学ぶ必要がある」というふうに変わっていたということです。

コースが教えていることの理解が深まっていくならば、誰もがそうなっていくといえるでしょう。

そのようになっていっていないとしたなら、それはコースの学びが深まっているとはいえないと言うことができます。

なぜなら、コースの教えを真に理解していくならば、自分(自我)の無知さ、狂気さ、愚かさを自覚するようになるからです。

そう、自分は無知である、狂気であると気づくなら、そのままでいいとは誰も思わないでしょう。

本当にコースが教えていることを理解していくならば、誰もが「自分はもっと学ぶ必要がある」とより自覚するようになるはずです。

ならば、その学びと実践はますます妥協がなっていくのは当然なことだといえるでしょう。


忘れてしまったもう一つの思考体系を学ぶ

上記にでも述べたように、「自分はもう分かっている」としてしまうなら、もはやコースの教えていることが学ばれていくことはないといえます。

コースを学んでいこうとするならば、私たちはそのことをしっかりわきまえておく必要があります。

というのも、実際、コースを学んでいるつもりでいても、コースの教えていることが理解されることもないまま、コースの学びの階梯の一番下に留まったままになってしまうことはよくあることだからです。

かつての私もそうだったように、です。

そういうことは私だけに限ったことではなく、むしろ、コースの学びにおいては必ずそういうことが起こるのだということを知っておいたほうが賢明だといえます。

それが、学びの階梯の一番下に留まったままにならないための秘訣です。

ようするに、コースを学んでいこうとする場合、自分は何も分かっていない、もっといえば、間違っている、狂っているということを認めたところからコースに真摯に取り組む必要があると言うことができるでしょう。


私は自分の最善の利益を知覚していない.。(W-pⅠ.24)

奇跡講座/中央アート出版社


仏教でいうところの無知、無明の状態にあることを自覚/認識しないかぎり、本当の学びははじまらないということです。

再び申しますと、「自分はコースを分かっている、理解している」と考えているなら、コースが学ばれていくことはないということです。

逆に言い換えるなら、「自分は何も分かっていない」と自覚していくことで、私たちがこれまで常識だと思い込んできた思考システムとはまったく異なるもう一つの思考システムを学ぶことができようになる、と言うことができます。

その「まったく異なる思考システム」こそが、コースの思考体系であり、聖霊(正しい心)の思考体系です。

コースの思考体系(聖霊の思考体系)を理解するようになるにしたがって、それに伴って、自分たちが自我の思考体系と同一化していることが認識できるようになるだけでなく、その自我の思考体系の狂気さも理解するようになります。

そう、自分が今や自我になっていることが自覚されるようになるわけです。

つまり、コースが教えていることの理解が深まっていくにしたがって、コースの学びが進んでいくにしたがって、

自分(自我)は何も分かっていないし、自分の考えはまさに狂気であることが自覚/認識されていくということです。

そうなっていくとき、私たちは「自分は何も分かりません」ということが受け入れられるようになっていきます。

そしてそれが、コースで言う「聖霊を招待する」ということです。

そのようにして、解離して忘れてしまっている自分の中の正しい心(正気の思考体系)が、つまり、聖霊が招き入れられることになるのです。

「自分は何も分かりません」という態度は、開かれた真の知覚へとシフトしていくために、つまり、ヴィジョン(心眼)を開いていくために、私たちが修得しなければならないものだといえます。

それは、神の教師の十の特徴の一つである「開かれた心(オープンマインド)」への第一歩なのだといえます。

ただ、それはまさに自分の非実在性、無意味性、無価値性を受け入れていくことでもあるわけですから、もちろん、自我はそのことにひどく抵抗するということも知っておきましょう。

ですから、自分は自我と同一化してしまっているということ、そして、その自分はいかに無知で、狂気で、愚かであるかを、しっかりと自覚していくことが不可欠なわけです。

自分はもはや自我になってしまっている、という自覚が私たちに求められているということです。

そのとき、私たちはようやく「自分が一歩下がる、自分が一歩退く」という謙虚さを身に付けはじめるようになるといえます。

それは、「自分は何も分かっていない」ことを自覚しているからこそ、それができるようになるわけです。

そうしていくときにはじめて、真の癒し真の赦し、というものが可能となるのだということをちゃんと理解しておきましょう。


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