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聖霊やイエスは私たちやこの世界をどのように見ているのでしょう?

コースは聖霊/イエスと同一化していくための霊性の道である

私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶとき、自我(の思考体系)について、そして、自我の力動について学んでいくことになります。

それはなぜなら、自我と同一化している自分を自覚できるようになるために、です。

というのも、私たちはすでに自我と同一化してしまっているからです。

そのことを自覚/認識するようになるとき、そこからが本当のコースの学びのはじまりだと言うことができるでしょう。

というのも、コース学習者の私たちは自我に気づいていくこと、そして、その自我を直視していくことが求められているからです。

自我を直視していくのに大事なのが、咎めずにジャッジ(判断)なしで見ていくということです。

それを「聖霊と共に見る」という言い方をします。

そのためには、自我の思考体系について学んでいくことはもちろんのこと、正しい心(聖霊)の思考体系についてもしっかり学んでいくことも必要なわけです。

ようするに、コースで私たちは何を学んでいくのか?

というなら、

自我の思考体系、そして聖霊の思考体系、その両方について学んでいくことがコース形而上学の学びなのだということです。

実践では、聖霊の視点から自我を直視する訓練をしていくことで、最終的に、聖霊と完全に同一化していくことをコース学習者である私たちは目指しているということです。

つまり、自我の思考体系から聖霊の思考体系へと心(思考体系)を完全にシフトすることを目指しているのだということです。


聖霊の視点(ヴィジョン)を修得していく

何度も申しますが、私たちは今や自我の思考体系と同一化してしまっているわけです。

自分はこの世界に生きて(存在して)いると信じていることがそういうことなわけです。

コースが教えていることを理解するようになっていくと、そのことが自覚/認識できるようになっていきます。

私たちはあえて動揺する(深刻になる)ためにこの世界にいるのだということが分かってくるということです。

私たちは動揺したくて自ら望んでこの世界の夢を見ているのだ、と。

そいうことを形而上学的に理解していくことによって、私たちは自我(の思考体系)と同一化していることに気づけるようになっていきます。

「動揺する」ということが、そのことを自覚/認識していくための機会となっていくということです。

ですから、コースの実践では、動揺したならば、自我(自我の思考体系)と同一化していることに気づいて、そして、心に戻ることを訓練していきます。

「心」の自分、つまり、「夢を見ている者」のアイデンティティーの視座に戻っていく訓練をしていくということです。

つまり、動揺をきっかけに、「心」の自分が自作自演でこの世界の夢を使って体験しているだけなのだ、ということを思い出していく機会となっていくわけです。

夢を見ている者の視座から自我を直視している自分は、もはや自我と同一化していません。

その視座から自我を直視するとき、それをコースでは「イエス、聖霊と共に見る」という言い方をします。

そこから見るとき、その自分は、自我ならびに自我が作り出したすべてが虚偽(幻想)だとはっきりと認識することができます。

それが、コースでいう「赦し」です。

いわゆる、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直すとき、すべてが実在しない虚偽であることが明らかになるわけで、その知覚を「聖霊の視点(ヴィジョン)」と呼んでいるということです。

ようするに、聖霊やイエスは私たちやこの世界のすべてのこと、ものをそのように見ているのだということです。

そう、その視点から見る訓練をしていくことによって、私たちは聖霊の視点(ヴィジョン)を修得していくことを目指しているのだということです。

そして、そうしていくことによってやがては聖霊(イエス)と同一化していくことになるということも知っておくと良いでしょう。


実相世界とは

その訓練は、自我を止滅するとか、自我を消滅させるような訓練ではないということです。

そうではなく、自我を信じていることから自由になることが、私たちがしていく訓練なのだということです。

というのも、コースの実践で赦しをしていったとしても、自我が消滅するのでもなければ、自我(の思考体系)が作り出した夢が消えてなくなるということではないからです。

自我も、そして自我の思考体系が作り出した夢(幻想)も、人生が終わるときまでずっと続くわけです。

私たちは自我を見ながらも、それを笑って見れるようになる、そして夢の中にいながらも、夢にだまされないようになっていくための訓練をしているのだということです。

そして、自我に、夢に、完全にだまされなくなったとき、それをコースでは「贖罪」と呼んでいるということです。

それが、コース学習者の私たちが目残しているゴールであり、それが「実相世界」と呼ばれているものです。

それは、実相がこの幻想世界に反映された世界だと言うことができます。

実相世界が象徴しているのは、罪と罪悪の夢は終わっており、神の子はもはや眠ってはいない。(W-p1.8.4:1)

奇跡講座/中央アート出版社

実相世界が達成されたとき、それは帰還の旅の終わりでもあり、時間の終わりでもあります。

この学びが深化していくにつれて、私たちは実相世界への階梯を上っていくことになるわけですが、その知覚(景観)たるものはこの世界(階梯の一番下)にいる私たちには理解の及ばないものだと思ってたほうがいいでしょう。

もっといえば、最終的に私たちが還っていくわが家(天国)は、いい意味で、私たちの想像の域をはるかに超えたものであるということを知っておくと良いでしょう。

だが、それらの壮麗さは先に進むにつれて言葉に尽くせぬ高みにまで達するとはいえ、そうしたものでさえ、この道程が消滅してそれと共に時間が終わるときに待っているすべてに比べれば、その足元にも及ばない。(M-19.2:7)

奇跡講座/中央アート出版社

リアリティ(実相/天国)がどんなものなのか?私たちには知る由もないわけですが、それでもその反映である「実相世界」を私たちは体現してしていくことができるのです。

それを体現していくために私たちはコースという霊性の道を歩んでいるのだということです。

そうなることをモチベーションに、その目的を見失わないように、このコースという霊性の道を歩んでいきましょう。


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