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個別の「私」から、一なる心である「私たち」へ


私はいない

私は肉体ではない。

もっといえば、「私」というものはいない。

「私」というものがない。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、そのことが体験的分かってくるようになります。

つまり、「私」というものも自分がでっち上げた想念でしかないと理解するようになっていくということです。

さらには、個別性、特別性、個人性というものが、いかに馬鹿げて狂った想念であるかも理解するようになっていきます、

そして、自分の内側に「私」というものなどいないと本当に理解していくとき、外側に見える他者も同じくそうであると理解するようになります。

自分が空っぽだと分かるなら、他者もそうだと分かるわけです。

肉眼ではそこに他者がいて人格(パーソナリティー)があるかのように見えていても、その人の内側には人格といったものはなく、それはただの影(フィギア/登場人物)にすぎないと分かるようになってくるということです。

夢の登場人物にすぎないキャラクターたちが、ただ動きまわっていて、言葉を話して、あたかも生きているかのように見えているだけのことだと。

この世界の中には、自分もいなければ、他者もいなけれは、そもそもこの世界自体が無であると。

そのように知覚されるようになるということです。

その知覚をコースでは「ヴィジョン(心眼)」「赦しのまなざし」と呼んでいて、私たちは赦しの実践を通してその知覚を体験的に学んでいっているといえます。

一方、「私は存在している」といったん信じるなら、「他者も存在している」と知覚することになります。

そして、他者を肉体として見るとき、自分も肉体であると信じてしまうことになります。

そう、普段の私たちが知覚している世界が、まさにそれです。

私たちは、この世界の中に自分は存在している、と何の疑いもなく信じています。

そのように知覚してしまうことで、今や、知覚しているこの世界は戦場となってしまっています。

ここには、もはや愛も、希望も、平安もないとなるわけです。

そう、「私」という自己概念を信じているかぎり、つまり、個別性の自己と同一化しているかぎり、この世界の夢の中に囚われ続けることになるということです。


「私」の非実在性を受け入れていく

そんな私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を通して、どのような訓練をしていくのか?

というなら、

「私」の非実在性を受け入れていくことをしていくということです。

そのためには、自分の考えや知覚を疑っていくことが求められています。

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