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完全なる悟りに至っていないなら、目覚めてはいないということ

「自分は目覚めている」と思っている人たち

「自分は目覚めた、j悟った、わかっちゃった」と思っているスピリチュアリスト、ノンデュアリストを巷でよく目にします。

ただし、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から見るならば、彼らの「目覚め」「悟り」というものが、真の非二元の「目覚め」「悟り」とは異なった定義をしていると言うことができます。

つまり、コースでいうところの「目覚め」は彼らが捉えている「目覚め」「悟り」とはまったくちがうのだということを、コース学習者の私たちは知っておかなければなりません。

もし本当に目覚めているのなら、自と他を別々のもの(存在)として見てはいないでしょう。

もし本当に目覚めているのなら、自分たちは(自分も含めて)未だに夢(幻想)を見続けていることを自覚していることでしょう。

もし本当に目覚めているのなら、いつもストレス・レスの(ストレスが一切ない)状態であるだけでなく、この外側の世界によって平安が奪われることはけっしてないでしょう。

それは、たとえ、自分の身に何が起きても、自分の愛する人に何が起きても、です。

自分の車がレッカー移動されたとしても、財布を落としたとしても、たとえ死にそうになったとしても、それでも平安で平気で淡々とすべきことをしていられるはずです。

本当に目覚めているのなら、むしろ、そういった惨劇はまったくちがうもの(愛/喜び/感謝)として知覚されていることでしょう。

そもそもが、本当に目覚めているなら、この外側の世界の一切を、つまり肉眼で見ている知覚を重要視してなどいません。

なぜなら、それらが真に実在していないことを理解しているからです。

むしろ、この世界を完全に看過したところの愛の臨在をいつも知覚しているはずです。

自分は何かをする必要もないということを知っています。

夢を見ている観察者となって、この世界の夢の外からこの世界の夢を眺めている者となっています。

いわゆる、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で言うところの聖霊/イエスは、まさにその象徴だといえます。

そう、それがコース学習者である私たちが思い出して同一化していくべく真のアイデンティティーです。

もし自分がそのような状態でないならば、つまり、「外側に世界がある」「外側に他者がいる」と知覚しているのであるならば、その自分はまだ分離の夢を信じている状態であり、つまりは未だ目覚めてはいないということです。

外側の世界に対して影響を受ける(動揺する)のなら、そういうことです。

そのことを自覚/認識することはとても重要です。

目覚めていないなら、すべきことがあるからです。

まだ完全に目覚めていないならば、何もする必要はない、というわけにはいきません。

この世界の夢の中にいる間は、それが完全なものになるまで、学ばなければなりませんし、訓練しなければならないということです。

自分で自ら投げ出して忘れてしまったものを、私たちは思い出さなければならないのです。

それは、完全に修得されるまで、つまり、「完全なる悟り」に至るまで、学ばれ、訓練される必要があるということを覚えておきましょう。


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