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肉眼で見えている世界を超えていくとき、ヴィジョン(心眼)は開かれる

この世界の見方として二つの見方がある

非二元から見るならば、この世界は幻想です。

ただし、コース(奇跡のコース/奇跡講座)は、この世界を幻想だとしてやみくもに否定していくような実践をしていくわけではありません。

この(幻想)世界を見る見方として、そこには二つの見方、考え方があることを、私たちはコースを通して学んでいきます。

つまり、この世界の見方として、二つの目的の方向があるということです。

一つは、自我の目的で見るのか?(自我を教師とするのか?)
であり、
もう一つは、聖霊の目的で見るのか?(聖霊を教師とするのか?)

という選択肢があることをコースを通して学んでいきます。

自我の目的でこの世界を見るなら、この世界はまったくの無意味です。

そして、通常、私たちは自我の目的でこの世界を見ています。

でも、私たちはそのことを認識し、その目的を変えることができるのだということです。

そう、自我の目的から聖霊の目的へと方向を変えるなら、この世界は(逆に)意味のあるものとなります。

どのように変わるのか?というなら、

その目的の方向を変えるとき、この世界のすべてが虚偽(幻想)あることを学んでいくためのレッスンの場「教室」となるということです。

それは、「自分」の存在の仕方がまったく変わることを意味します。

この世界を教室としながらその学びと訓練をしていくことで、コースの思考体系が根付いていくと共に、それまでとはまったくちがう知覚がもたらされていくということです。

それが、コースでいうところの「心眼(聖霊のヴィジョン)」と呼ばれている知覚です。

この世界で起きていることや自分の身に起きていることなど、それらを使って訓練していくとき、それらを笑って(微笑んで)見ることができる視点が思い出されていくということです。

そこから見るならば、すべてがでっち上げた夢(虚偽)にしかすぎなかったことが明らかになります。

というのも、自分はこの世界の外側にいる「夢を見ている者」だったのだということが明らかになるからです。

そから見ている視点を、コースでは、「聖霊の視点」「戦場を超えたところ」と呼んでいます。

いわゆる、この時空間の外、時空を超えたところにある視点のことです。

いわゆる、「いまここ」の視点です。

そう、私たちはコースの赦しの実践を通して、本当の自分(真の自己)は時空を超えたその視点(視座)に居るのだということを体験的に自覚していくことになるのです。

そこには、絶対なる(神の)平安があります。

というのも、本当の自分は何ものにも脅かされることがないのだ、と分かると同時に、むしろ、自分は自ら脅かされたくてこの世界の夢を見ているのだったということが自覚/認識されるからです。


”実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。”
(T-In.2:2-4)

奇跡講座/中央アート出版社


そのとき、この世界が幻想(幻覚/幻影)であることが理解されるだけでなく、自分はその幻想に対して動揺していただけだったということも認識されます。

それだけではありません。

この世界の幻想を看過していくとき、その幻想(幻覚/幻影)のベールを超えた向こう側に隠されていたキリスト(聖霊)が臨在していることが認識されていきます。

キリスト、それは、広大無辺に臨在する光、愛であり、それは「いまここ」にある、ここが天国である、と認識されるようになっていきます。

そのように、この世界を、そして、兄弟を看過して見るようになるとき、それらを超えた向こうに、それを知覚するようになります。

心眼(ヴィジョン)はそうやって開かれます。

それが、「実相世界」と呼ばれるものです。

それは、「聖なる瞬間」でもあり、その瞬間とは、原初の旅がはじまった瞬間でもあり、その旅が終わった瞬間でもあります。

それは、私たちが帰っていく場所であり、もともと私たちがいる場所です。

それは、リニアな時間軸上ではない、今この瞬間、にあります。

それは、永遠に、いつのときも、です。

そして、その時空を超えた「今」へと帰って行くために、この世界、そして兄弟が必要なのだということも理解されてきます。

それらを使って、それらを教師として、そのレッスンをしていくほかないことを理解するわけです。

それは、誤りを訂正していく、ということです。

自分を何だと信じているのか?

どのように知覚しているのか?

それは単なる誤りなのであり、その誤りを認識し、訂正していくということです。


”奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。”(W-pII.13.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは、この人生のドラマが終わるまで、肉眼で見ている世界をこれからも知覚し続けます。

でも、その知覚が訂正されていくにしたがって、もはやこの世界を、人生のドラマを重要視することはなくなっていきます。

つまり、目的を変えることによって、この世界の意味がまったく変わるだけでなく、その知覚もまったく変わっていくということです。

肉眼で見ている知覚を超えて(看過して)いくことによって、ヴィジョン(心眼)で見る知覚のほうへと移行していくということです。

コースではその訓練を、「自我を教師とする代わりに聖霊を教師としていく」という言い方で表現しています。

「教師を変える」「目的を変える」とはそういうことであり、それが、コース学習者の私たちがしていく訓練なのだということを理解しておきましょう。


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