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神の平安よりも、私たちは苦しみのほうを望んでいる!?
一切の夢を放棄する
ワークブックレッスン185「私は神の平安を望む」というレッスンがあります。
あなたは、本気で神の平安を望んでいるだろうか?
と、その中でコース(奇跡のコース/奇跡講座)のイエスは私たちに訊ねています。
”この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。”(W-pI.185.1:1-2)
” 神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。”(W-pI.185.5:1)
コースが教えていることを理解していくにしたがって、私たちは「自分は神の平安などまったく望んでいない」ことを自覚していくことになります。
というのも、「一切の夢を放棄すること」をしていないなら、そういうことだからです。
一切の夢を放棄してわが家に帰ることよりも、むしろこの世界の夢のおもちゃ(玩具)のほうを重要視しているわけです。
それがどういうことなのか?まともに考えるなら、その自分はよほどわが家には帰りたくないということです。
つまり、神の平安よりも、苦痛、苦しみのほうを望んでいるということです。
その狂気さ、愚かさを自覚/認識するならば、もはやその自分(自我)と同一化してなどいられない!と誰もがそう思うはずです。
正気であるならば、誰もがもうそれをよしとはしないはずです。
ただ、残念なことに私たちはそのとをまったく自覚/認識していません。
そう、自覚/認識していないからこそ、この世界のおもちゃ(玩具)で遊でいることに寛容でいられるわけです。
この世界は自分を傷つけるおもちゃ(玩具)でしかないことを認識していないだけでなく、それどころかまったく認識しようとしない、したくない、私たちはまさにそのような状態になっているということです。
私たちは今や自我(の思考体系)と同一化しているがゆえに、それが分からないのです。
コース(奇跡のコース/奇跡講座)のイエスはそんな私たちに、「私と共に見てごらんなさい」「ありのままに見なさい」と云ってくれています。
コースのイエスが教えている通りに、私たちがイエス/聖霊と共に自分たちがしていることを見るならば、それがどれだけ狂気で愚かなことかが明らかになるでしょう。
ようするに、真実が明かされることになるわけです。
その真実とは、私たちは神の平安を望んでいるのではなく、むしろ神の平安を拒絶し続けて、そして苦痛、苦しみを望んでいるのだということです。
あなたがコースが教えていることを真に理解していくとき、そのことが明瞭になります。
そうなってようやくあなたにとっての本格的なコースの学びがはじまるとともに、あなたはコースの学びと実践に対してますます本気で取り組むようになるといえるでしょう。
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