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テキスト、ワークブック、教師のマニュアルを理解していくことは必須です

赦しはやり方やテクニックというものではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において、コース学習者の私たちは何をしていくのか?

というなら、「赦し」の実践をしていくということです。

ただし、その「赦し」というものがどういうものであるか?が理解されていなければ、当然、その実践などできるわけがありません。

ですから、赦しとはどういうものか?について学ぶ必要があるわけで、それがコースのテキスト、ワークブック、教師のマニュアルの三部作を学ぶということの理由だということです。

つまり、コースの学習者は、その三部作を通して「赦し」について学んでいるのだということをわきまえておくとよいでしょう。

それは、完全に理解され、そして完全に修得されるまで学ばれる必要があるということです。

そうであるにもかかわらず、ときどき、「テキスト、ワークブック、教師のマニュアル、など学ばなくてもいい、本編(三部作)を理解していなくても、赦しのやり方さえ分かっていればいい」というふうに云っているコース学習者やコース・ティーチャーがおられたりします。

加えていえば、まるでセラピーや自己啓発やスピリチュアルといったものと同じように捉えて、「赦しのやり方を教えます」といった具合に「赦し」をまるで技法やテクニックといったものであるかのように扱って指導しているケースもあったりします。

コースの形而上学的な部分の理解がなくても赦しのやり方さえ分かればその実践ができると思っているわけです。

たしかに、コース学習の初期の段階においては、「赦しのやり方」が分からないので、早くそのやり方が分かりたいと思うことは仕方のないことです。

ただし、「赦し」というものを本当に理解するようになるなら、「赦し」はやり方、技法、といったテクニックといったものではないと分かってきますし、「赦しのやり方を教えます」というふうにはけっしてならないと言うことができます。

「赦し」はやり方やテクニックというものではありませんし、それはコース形而上学の理解なしではけっしてあり得ないということです。

もっといえば、コースの形而上学を理解することですらも、繰り返し繰り返し学ばれていなければ、理解されるものではありません。

テキスト、ワークブック、教師のマニュアルを学ばなくても、理解していなくても、赦しのやり方さえ分かればいいということであるならば、もはやそれはコースを学んでいるとはけっして言えないでしょう。

コースはそのような霊性の道ではないと知っておく必要がありますし、このコースは、地道な学びと訓練を要する霊性の道であるということを肝に銘じて歩んでいく必要があるといえます。

コースを本気で学んでいこうというのであれば、やはりコースの三部作(テキスト、ワークブック、教師のマニュアル)を学んでいくしかないということです。

むしろ、それは、コース学習者としては当然のことだということです。

実際のところ、本編の三部作を学んで、理解していこうという気もなくいくら学んでいったとしても、その真意が学ばれることはけっしてないでしょう。

逆に言うなら、本編を真に理解するようになるならば、この世界のものの見方、考え方、知覚といったものは、これまでとはまったく違うものへとシフトしていくことになります。

それこそがコースを学ぶ目的であるわけですが、その目的が見失われているならば、コースをいくら学んでいっても意味がないといえるでしょう。

もっといえば、「赦し」をまるで手法やテクニックというようなものとして、コースの実践をしているとしたならその実践に意味も効果もないし、そもそもそうであるなら、それはコースの目的とするところではないということです。

何のために、どのように、どのような考え方に基づいて赦しの実践をすればいいのか?そういったことについて学ぶのが、コース形而上学の学びです。

形而上学は、実践していくためのその基盤となるものです。

コースの実践をしていくためにはコース形而上学の理解が必須ですし、そのために、テキスト、ワークブック、教師のマニュアルを理解していくことは必須なのだということです。

それら三部作の理解なしに、「赦し」についての理解もあり得なければ、その実践もあり得ないということです。

コースを学んでいる私たちは何を学んでいるのか?というなら、「赦し」について学んでいるのだということを肝に銘じておきましょう。

テキスト、ワークブック、教師のマニュアルは、そのためにあるわけです。

そのカリキュラムを無視するなら、それはもはやコースとは呼べません。


これは奇跡についてのコースである。必修科目である。いつ受講するかだけがあなたの自由である。自由意志とは、あなたがカリキュラムを編成できるという意味ではない。(T-In.1:1-4)

奇跡講座/中央アート出版社


奇跡とは、赦しと同義語と捉えていいでしょう。

つまり、私たちは、「奇跡」「赦し」という手段を使って、この世界から目覚めていくことを目指しているということです。

そして、「奇跡」「赦し」について理解したいなら、コースの形而上学を学んでいく以外にないのは当然のことだということです。


これは奇跡についてのコースである。必修科目である。(『奇跡講座』序文より)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは、つい、もっと容易くコースを学ぶ方法はないか、もっと手っ取り早くコースを修得する方法はないか、と思ってしまいがちです。

でも、そういう近道はないと知っておくと良いでしょう。

とくに、テキスト、ワークブック、教師のマニュアル、それらの学びなしにコースが教えていることについて理解しようとするその試みは、その考え方(思考)そのものが自我の思考体系からなるものであると気づくべきです。

 自我は、そのようにコースの教えを自分にとって都合のいいように矮小化して理解しようとするということを知っておきましょう。

自我を軽視してはなりません。

学ばない、目覚めない、それが自我の目的なのですから。

コース形而上学を理解するようになるならば、そういうことについて、もっともっと気づけるようになっていきます。

それによって、コースの学びと実践がよりスムーズなものになっていきます。

そのためにもテキスト、ワークブック、教師のマニュアルをしっかり学んでいくこと、そしてそこで述べられていることが理解できるようになること、それが私たちに求められているのです。

ようするに、それは修得されるべき必修科目であるということです。


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