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愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すこと


自我を見る、闇を見る、幻想を見る

自分は誰で?

どこから来て?

何をしているのか?

そのことをすっかり忘れてしまっているのが、私たちです。

そして、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶということは、その忘れてしまったものを思い出すことを目的としていると言うことができるでしょう。

真理からいえば、私たちは一なる一体性(ワンネス)であり、愛そのものであり、永遠なるもの、完全なるものであるわけです。

であるにもかかわらず、私たちはその真理を忘却の彼方に忘れてしまっています。

そして、今や本当の自分とはまったく真逆の体験をこの世界で経験しているといえます。

私たちはそれを「人生」と呼んでいます。

人生とは?

生きるとは?

そのことに疑念、疑問、違和感を抱く者はほとんどいません。

でも、ごく僅かな者たちがその答えを求めて、非二元、ノンデュアリティ、一元論のスピリチュアリティ、といった霊性の道に惹かれていくことになります。

私もそうだったように、です。

そして、私にとって、様々なスピリチュアリティがあるその中でも、もっとも心惹かれていったスピリチュアリティこそがこのコースだったということです。

もちろん、コースはさまざまな一元論のスピリチュアリティがある中の一つの霊性の道でしかないということです。

コースは、真の自己(自分は何なのか?)を思い出していくための霊性の道であり、言い換えるなら、自我(二元性の思考体系)から脱却していくための霊性の道だと言うことができます。

そして、私たちが学ばなければならないのは、自我から脱却していくためのは自我(の思考体系)について理解する(知る/悟る)ことによってでしかあり得ないということです。

つまり、自我の思考体系について理解することなしに、自我から自由になることなどあり得ないということです。

だからこそ、私たちはコースを通して自我(の思考体系)について学んでいるのだといえます。

コースの中では、”愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることを目指している”(T-in.1:7)と述べているように、私たちは自我(の思考体系)にフォーカスしていくことが求められているのだということです。

コースの学びが浅い段階では、その学びは、愛、神、聖霊、光といったものについフォーカスしてしまいがちになりますが、コースはそのような霊性の道ではないということです。

そうではなく、むしろ、その真逆のもの、つまり、自我にフォーカスしていくことをしていきます。

私たちは自分の内側に隠された自我、闇といったものを明らかにしていくことが求められているのです。

そう、それが、コースの実践でいう「自我を見る、闇を見る、幻想を見る」ということなのだということです。


闇を通り抜けて光に到達する

コースの実践において私たちがしていくのは、苦痛、苦しみ、葛藤、動揺といったそれらをむやみに否定していくのではなく、むしろ、それらをきっかけに、それらを使って赦しの実践をしていくということです。

私たちは自我を使って、自我が作り出したこの世界を使って、自分とは誰なのか?自分は何をしているのか?自分はどこにいるのか?を思い出していくことを試みているのであって、その実践的手段を「赦し」と呼んでいるということです。

そう、

コースの学びが進んでいくとどうなっていくのか?

というと、

苦痛、苦しみ、葛藤、動揺といったものの中にこそ救いがある、ということが体験的に理解されていくようになっていきます。

そういう意味でいえば、他のスピリチュアリティとはまったく真逆のアプローチをしていく道だと言うことができましょう。

それというのも、闇を実在させたまま、神、愛、光のほうをいくら追い求めていったとしても、闇が取り消されることはけっしてあり得ないわけです。

闇とは逆の方向に追い求めているそれは偽り(代替)の神、愛、光でしかありません。

闇を超えた向こうに光、愛があるのであり、私たちは闇を通り抜けて光、愛に到達するのだということを覚えておきましょう。

そう、闇は非実在だ!といくら知的に知っていても何の意味もありません。

光の真逆のものなど存在しないということを体現する(悟る)ことこそ、非二元、一元論のスピリチュアリティの本筋であるといえましょう。

闇を通り抜けていかないかぎり、真理の光に到達することはけっしてあり得ないということです。

ただし、私たちは闇を直視することをひどく恐れています。

闇が取り消されることは、自我にとってはまさに「十字架刑」であるかのように知覚されるからです。

なので、「十字架刑」(闇)を私たちはひどく恐れているわけです。

ですが、コースはそこにこそ救いが置かれていると教えてくれています。


十字架刑の中に救いが置かれている。なぜなら、癒しは苦痛も苦しみのないところには必要ないからである。(T-26.Ⅶ.17:1)

奇跡講座/中央アート出版社


十字架刑の中に救いが置かれている

十字架刑にこそ救いがあるというのに、むしろ、そこから逃れようとしているのが私たちです。

それが何を意味しているのか?というと、私たちはじつのところ、本当は救われることを恐れているのだ、ということです。

もっといえば、すでに今も私たち(神のひとり子)は十字架刑に掛けられたままでいるというのに、まったくその自覚がない、というか、その真実をまったく忘却の彼方に追いやってしまっているのです。

そして、自分の外側にいる者たちを十字架刑に掛けて、自分は「無垢なる顔」を装っているわけです。

本当は他者などどこにもいないにもかかわらず、「自分は肉体(身体)である」とすることで、自分以外の他者を存在させて、自分の代わりにその他者に罪を擦りつけているのです。

それが「投影」のシステムなわけです。

自分以外の者が罪人になることで、自分は救われると思っているのです。

本当は、自分こそがこの今も、十字架にかけられているというのに、です。

今や私たちはこの世界(宇宙)という忘却のベールによって、もはや自分が何をしているのか?自分が誰なのか?を忘れてしまっています。

さらに、「自分がこんな状態なのは自分のせいじゃない」と、私たちはそのことを否認し続けているのです。

なんて狂気なのでしょう。

なんて愚かなのでしょう。

その真実を認識するならば、誰もそれをよしとはけっしてしないでしょう。

自分で自分を十字架に掛けているのですから。

コースが教えている通りにこの世界をありのままに見るならば、私たちが「人生」と呼んでいるものは、まさにそれをしているということが理解されます。

この世界の中の誰もがその状態にあるということが分かります。

十字架に掛けているのも自分であり、掛けられているのも自分です。

この世界はそのような夢であるということを私たちは悟らなければならないといえましょう。

そのための実践的手段が「赦し」です。


いかなる種類の攻撃に対しても、赦しが答えである。(T-26.Ⅶ.17:2)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちがしていかなければならないのが、「赦し」なのだということです。

「赦し」は、それらすべてが馬鹿げた狂気のストーリーであることを見せてくれます。

「赦し」の視点から見るならば、十字架刑もない、苦痛もない、苦しみもない、すべてが狂った思考体系による妄想(戯言)でしかなかったと思い出すことができます。

そう、そのすべてが「無」であることを真に知る(悟る)とき、私たちはそのすべてを看過したそこに光、愛がすでに臨在していることを理解するようになります。

その赦しによってもたらされる光、愛に触れる経験が、ますますこの学びを先に進めようとするモチベーションとなっていきます。

私たちはこの世界の夢の中での新たな存在の仕方を学んでいくとともに、ますますそれが居心地よく感じるようになっていきます。

要約するならば、

コースとは、どのような霊性の道なのか?

というなら、

コースは、光、愛をさがし求めていく道なのではなく、光、愛はすでにここに在るのであり、それを見えなくしている障壁を取り除いていくことをしていく霊性の道なのだということです。


あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことである。真理であるものを探し求める必要はないが、誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


コースはそのような霊性の道であるということを忘れないように、コースの学びと実践に励んでいきましょう。


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