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コースの学びのプロセスにおいて混乱や苦しみが湧き起こってきたなら

コースはけっして楽な道ではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのその途上において、理解の混乱が起きたり、あるいは、コースを学ぶことが苦しくなるということが起きたりします。

コースが正しく学ばれていくならば、そういうことは学びのプロセスにおいて誰もが経験していくものです。

むしろ、混乱や苦しみといったものが湧き起こって来ないということは、コースの学びが進んでいるとは言い難いといえるでしょう。

それというのも私たちはそもそもが自我の狂った思考体系と同一化してしまっているので、混乱と苦しみが湧き起こって来ないわけがないからです。

コースの学びが進んでいくにつれてそういったものが湧き起こってくるのは当然のことだと知っておくと良いでしょう。

つまり、混乱や苦しみが湧き起こってくること自体が、自分は自我であるということの証拠であり、そのことを自覚してはじめて本当の意味での学びのプロセス(癒しのプロセス)がはじまるといえるわけです。

そう、自分は狂気の思考体系と同一化していることが自覚/認識されていくことで、コースの学びと実践の歩みがはじまるということです。

もちろん、苦しみながらコースの道を歩んでいく必要はありません。

ただ、私たちはその苦しみと向き合っていかなければならないということです。

コースはけっして楽な道ではないということが、そういうことです。

コースの学習者である私たちは苦痛や苦しみといったものを使って、それをきっかけにして実践していくのだということを覚えておきましょう。

つまりは、無意識に抑圧している闇を見つけ出していくことが私たちがしていかなければならないことであって、闇が湧き起こって来ないならば、それを取り消していく(訂正していく)ことなどできないということです。

闇/苦しみ/自我は実在しないのだということをいくら知的に理解していたところで何の意味もありません。

それでは何の助けにもならないということです。

私たちは実践を通して体験していくことでしか、それらが虚偽であり、実在しないのだということを悟る(知る/理解する)ことはできないのです。

だからこそ、闇(自我)を直視していかなければならないわけです。

闇を通り抜けていきなさい!と、ワプニック博士も云っています。

なぜなら、闇があるところに(その向こうに)光があるからです。

闇は「無」である、闇は自分ででっち上げた幻想であると悟っていくことで、私たちは闇を看過できるようになっていくのです。

そうなっていくとき、すでにここに光、愛、平安、幸せ、喜びといったものが臨在していることを思い出していくことになります。

言い換えるなら、もし闇を通り抜けていくことなしに、つまり、闇を取り消していくことなしに、そのような実践をしているとしたなら、それは真の「赦し」ではないということです。

もし、そこに(真の)平安、(真の)喜び、愛、といったものがあるとするなら、それらはすべて代替(ニセモノ)の平安、喜び、愛だと思っていたほうが良いでしょう。

もし、闇、苦痛、苦しみを通り抜けることなしに「自分はもう実相世界の近くにいる」と思っているとしたなら、それは愛の代替(ニセモノの愛、平安、喜び)でただ欺いているにしかすぎないということです。

私たちは闇、苦痛、苦しみといったものをすでに実在させてしまっているからこそ、私たちがすべきことは「それらはすべて虚偽である」と知っている教師と共に見る(直視する)必要があるのです。

そして、コースではそれを「奇跡」と呼んでいるわけです。


奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pII.13.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


その歩みはけっして生半可な道(霊性の道)ではないということです。

そのプロセスにおいては、コースを投げ出したくなったり、コースから逃げ出したくなったりするときもあったりします。

そういうことはコースの学びのプロセスにおいて当たり前にあるということを知っておくと良いでしょう。

なぜなら、 私たちはすでに自我と同一化してしまっているからです。

もっといえば、私たちはすでに自我になってしまっているのです。

自我は、けっして目覚めたくなどないのです。

自我は、この世界の夢を見続けていたいわけです。

それが私たちであり、つまりは、神のもとに帰ることを、真理に目覚めることを、じつは恐れているわけです。

そのために、闇、苦痛、苦しみをずっと隠し持っていようとするのです。

そして、この世界の中でハッピーや快楽を追求させておくことで、それが可能となるのです。

でも、私たちがコースの実践を通して闇、苦痛、苦しみといったものを通り抜けていくことをしていくならば、もはや私たちはこの世界をまったくちがったふうに知覚することになります。

この世界の夢から目覚めていくためのレッスンの場(教室/学校)として、この世界を見るようになります。

そうなっていくにしたがって、私たちはこの世界を看過したところに、愛の臨在、キリストのヴィジョンといった真の知覚で見るようになります。

そのような真の知覚を修得していくことがコース学習者である私たちが目指しているものです。

そういうことでいえば。まだまだ私たちは真の知覚にシフトしていくために学びと訓練が必要だといえましょう。

とかく、混乱したりとか苦しくなったりすることがあっても、それを良くないこととして捉えないことです。

そもそも良いも悪いもないのです。

コース学習者の私たちは、むしろそれらをコースの実践に応用していくのだということを覚えておきましょう。


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