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自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直すために知っておくべきこと


コースの学びが進んでいくにつれて分かってくること

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者の私たちは、コースが教えている思考体系を習得(修得)するためにコースを学んでいると言うことができます。

ただし、コースの学びが進んでいくにつれて分かってくることがあります。

それは、私たちはコースを学んでいるにもかかわらず、その内側ではコースが教えていることをまったく信じたくない、受け入れたくない自分がいるということです。

コース学習者でありながらも、コースをまったく信じていない、ということが自覚されていくということです。

自分たちは、自我をいつも教師としてしまっているし、自我になってしまっているということです。

それは、この世界に居る誰もがそうだということです。

つまり、誰もが無意識の深い部分ではコースが教えていることを拒絶しているということです。

それゆえ、コース学習者の私たちはそのことを認識していく必要があるといえます。

そのことを認識しないままならば、コースの道を歩もうとしても、常に向かい風(自我の抵抗/自我の防衛)と戦うことになります。

いわゆる、コースの歩みが茨の道となるわけです。

ですから、私たちが理解しなければならないのは、私たちの無意識では常に聖霊を拒絶しているということ、ひいては、神の愛、真理、目覚めを恐れているということ、それゆえに、私たちはコースの教えを拒絶しているということです。

コース学習者の私たちは、その無意識の部分を明らかにしていくことが求められています。

もしコースが教えていることが信じられて、受け入れられているなら、コースの学びも実践もそれほど難しいものではなく、さっさと学びの階梯を上っていって、あっという間にこの世界の夢から目覚めていくにちがいありません。

でも、実際は、そうではありません。

学びが進んでいくほど、コースはそんな容易い道ではないと分かってくるようになるということです。

その自分はコースを学んでいるにもかかわらず、「この世界は実在していない、この肉体は実在していない」なんてとうてい思ってなどいないし、それどころか「コースの教えのほうより自分の考えのほうが正しい」とさえ思っています。

そのようなことが、コースの学びが深まっていくにつれて、はじめて分かってくるわけです。

そう、そういうことを認識していくことこそが、この学びを通して私たちがしていかなければならないことだといえます。

なぜなら、それが認識されていかないかぎり、訂正(取り消し)されることはけっしてないからです。

そのためにはもちろん地道な学びと訓練が必要なのだということは言うまでもありません。


自分は自我であることを自覚/認識すること

上記でも述べたように、コースの学びが進んでいくにつれて、私たちはコースが教えていることをまるで信じてない、ということをますます自覚/認識するようになっていくと言うことができます。

つまりは、自我と同一化していることが自覚されていくということです。

自分はもはや狂気の思考体系と同一化していることが自覚/認識されるわけです。

その自分は、けっして目覚めたくなどありません。

けっしてこの世界から目覚めないぞ、とさえ決めています。

コースの教えなど信じられない、受け入れられない、と抵抗しています。

「それらは馬鹿げていて役に立たない」とさえ思っています。

つまり、コースを学んでいつつも、その自分はまさに心が分裂していると分かるわけです。

その自分はまさに狂気だと。

自我の思考体系というものはそういうものだと分かるわけで、その思考体系と同一化していることが自覚されるわけです。

それは、コースが教えていることの理解が深まっていってこそ、そのことが自覚/認識できるようになっていくといえます。

ただ、だからといって、その自分(自我)をどうにかしようとするのがコースの実践でしていくことではありません。

その自分(自我)を裁くことなく、咎めることなく、ただ自覚/認識していくことが私たちに求められているのです。

つまり、自我を咎めずに見る、という訓練です。

その「自我を咎めずに見る」訓練は、ワークブックのレッスンをしていくにあたっても同様に重要なことだとして知っておく必要があるといえます。

ワプニック博士は、そのことにちなんで、ワークブックのレッスンをしていく私たちを例に挙げて、次のように語っています。

「この(自我の)力動の他の実例を挙げるとワークブックのレッスンをしたくないことが挙げられます。それらは馬鹿げていて役に立たないと思っていますが、私たちは、イエスがすべきであると考えているので、やっているだけです。ただ、一日を通して私たちがレッスンを忘れてしまうということによって、抵抗は成功(ブレイクスルー)しています。私たちがそのような葛藤を感じているかぎり、癒しは起こり得ないことは明らかです。私たちがしていることは馬鹿げていて役に立たず、私たちが間違っているということを受け入れるほうが幸せであると認識する必要があります。」

ー Journey through the Text of A Course in Miracles「30章Ⅰ.決断のためのルール」/ワプニック博士(著)より ー

上記の”私たちが間違っているということを受け入れるほうが幸せであると認識する必要があります”という意味は、つまり言い換えるなら、「自分は自我であると認識する必要がある」ということです。

自我は、コースなど馬鹿げていて役に立たない、といつも語りかけています。

自我は、コースを学びたくなどないのです。

自我は、ワークブックレッスンをしたくはないのです。

自我は、真のアイデンティティーを思い出したくなどないのです。

なぜなら、真のアイデンティティーを思い出すものなら、自我は消滅してしまうことを知っているからです。

自我とはそういうものであり、私たちは、その自我と同一化してしまっている状態になっているということです。

「コースなんて馬鹿げている!コースの云っていることなんて嘘の戯言(たわごと)で、自分の見ているこの世界こそが現実に決まっている!」と、

四六時中、私たちは自我を教師としていて、その声を聞き続けています。

そのことを認識し、自覚していくとき、ようやく「自分のほうが間違っている」ということを受け入れることができるようになっていくといえます。

そして、「自分のほうが間違っている」ということを受け入れるそのとき、自我を教師とするのをやめることになり、そして、聖霊を教師として招き入れることになるといえます。

つまりは、それが、「自我を教師とする代わりに、聖霊を教師として選び直す」ということであり、それが、私たちがしていく実践なのだということを覚えておきましょう。


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