見出し画像

幸せでも辛くてもどちらも同じ

分離がないということは
全部同じということ

幸せでも辛くてもどちらも同じと言われたら

分離の思考体系からみると
怒りが沸き起こったり、不快な気分になる
ちょっといくらなんでもその考えって・・・・とつっこみを
いれたくなる考え方です。


でも分離がないところから見ると
やはり、
幸せでも辛くても、どちらも
同じという意味なんです。

個人的に、仕事が立て込んで
忙しくてイライラしている自分がいました。

このことをテーマに
心の自分に戻って、「自我(間違った心)」を
ほりさげていくと

深刻で重たい「罪悪感」を抱いている
「自我(間違った心)」がいました。

わたしは忙しくなる事で罪滅ぼしをしている
わたしはみんなに罰せられる存在だ

顕在意識では思いもよらない
「自我(間違った心)」の思い込み。

さらに、もっと隠されているのは

実は、罰せられたがっているという
一番隠された願望を、確かに感じることが
できる。

ここが、「自我(間違った心)」が
一番隠しておきたい、自作自演のストーリー

それに気づいた時

は!と正気にもどって

なんだ、全部自作自演だったんだ!と

まるで、真っ暗闇のお化け屋敷に
電気をつけて、種明かしされたときみたいに

これ以上深刻になれないで
笑ってしまう視点が顕れる。

それが、「赦し」の視点
「正しい心(聖霊)」の視点

この軽やかさが「神の愛」です。


この視点からみたとき

あ~、忙しかろうが、そうでなかろうが
どっちも同じ。

ただ、おこる事が、おこっているだけだった。

だから、咎めることなんてないし
何一つ変える事もない。と
深く腑に落ちます。

この実践を続けていくうちに
幸せでも辛くてもどちらも同じ

という視点でみれるようになっていくはず。

ということで、実践がんばろうと思います♪



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?