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何を信じているかに気づく

日常の中で赦しの実践練習をしています。
仕事を終えた後に、いつも感じるモヤモヤ感

わたしの言い方で、相手の表情が曇った
もっと別の言い方にすればよかったのか?

こんな風に、自分を観察すると

自我(間違った心)は罪罪悪感恐れの投影として
わたしや、他の人々という登場人物や
その間でのやりとりの中で
頭脳が色々な思考をつくっているわけです。

でも、それって本当?と疑問視していきます。

例えば
わたしの言い方で相手の顔が曇った

そう考えているということは

わたしの行動で相手の行動を変える事ができる

と信じているという事

でも、それって本当?

聖霊の視点からみれば

わたしが何か言った。相手の表情が曇った
そこに何の意味もない。

さらにいうと、
わたしや、相手とう個人がいる

肉体があり時間があり病や死があり
宇宙があり

どんどんスケールを大きくしていってもやっぱり

本当なの?

信じているだけかもしれない。

ただ、わたしたち自我は本当にその全てが
実在していると信じているし

さらにその奥に間違った心(自我)は
罪罪悪感恐れが実在するという事も信じている

もっと正確にいうと、信じたがっている
という事
それを信じないとしたら、何もなくなってしまう事が
怖いと恐れている事に
気づいていくとう事が、実践で大切なところ

そう思っています。


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