主体性無き不幸依存
私はこのご時世には減少の一途を辿るばかりのかなりの愛煙家で1日にタバコを1箱半、休日には2〜3箱くらい吸っている。我ながら多いと思う。1人の時は常にタバコを咥えていると言っても過言ではない。完全に依存だ。ニコチン中毒。
健康に悪い事は百も承知ではあるけれどどうしてもやめられない。禁煙中とてつもなくイライラするという事もないがどうしても口寂しいし落ち着かない。もう自分の中ではルーティンになってしまっているようで出勤直前や仕事の休憩、食事後や風呂上がりのタバコは最早生活の一部と化してしまっている。
それだけではない。アルコールもそうだ。ここ1年毎晩のように酒を飲んでいる。ただコレはやめようと思えばやめられるとは思うけれどやめる理由がないだけだ。さらに考えれば毎日缶コーヒーも3本くらい飲んでいる。コレは参った。依存しているものが多過ぎる。だから腎臓に石ができたり喉から血が出るんだ。俺よ、悔い改めろ。病死は嫌だ。どれか1つを筋トレとかに変えろ。
依存というものはいくつかの種類があってさっき挙げたのは物質に対する依存。他にはプロセスに対する依存や人に対する依存があると思う。依存や依存の類別については勉強したわけではないので詳しいわけではないから薬物やマジの依存症で悩んでいる人は医者に行ってくれ。
依存というのはとても楽で、苦しまないというわけではなく楽。苦しいに決まっている。やめたいのにやめられないのは甘え。というわけじゃないのは当然理解している。もはや依存は現代病だ。
ただ依存してから「自分依存してるな。辞めなくては」と自覚するまではめちゃくちゃ楽なのだ。気持ち良かったり楽しかったり落ち着いたり。
ただでさえ生きるというのは辛い事ばかりなのだ。幸福な思い出はいつだってボンヤリとした輪郭だけしか残ってくれはしない。
形のハッキリ見える不幸を糧に頑張れる人間ではない私はいつも不幸に縋って生きている。他人と比べズバ抜けて不幸であるというわけでもないが決して恵まれているわけではないという事を自己同一性に据えて生きている。
私は不幸に依存している。
ただでさえ生きるだけで精一杯な私は人生の質にまで手が回らない事ばかりで。刹那主義というわけではないけれど長いスパンで考えるなんて事はよほど出来ない。
みっともないし良い事もないからやめなくてはとも思っているがどうしても私は他に他人を使わずに自己を確立させる術を持たない。なんとも情け無い話だ。
1人では救われない人間同士が依存ではなく互いに許容し合う事が出来たらどれほど良いのだろうか。なんて手垢の付いた理想論なのだろう。
とりあえず酒だけでもやめて筋トレしてみるのもアリかもしれない。
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