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弱者を殴る美しい武器

もうやめてくれ。正論は聞き飽きてしまった。

私たちはいつだって何かの中から何かを選び取って生きていて、それは正しい事ばかりではないけれどそれでも自分で選択したように生きている。

他に選択肢がない時もあるけれどそれは今まで選んできた道が、もしくは生まれ持った何かがそうさせているだけで私たちはいつだって何かを選んで生きている。それは情報の取捨選択だったり、このページを開く事だったりと様々で極端な事を言えば歩き出すときの足から死に方だって私たちは選び取ることが出来るのだ。後者にはモラルというものが邪魔をするように絡みついてくるけれど。


私は自分でいうのもなんだけれど善人に位置する人間だと思っている。それは私が善人たろうとしているからで、その気になればいつだって悪人になれる。簡単な事だ。仕事を全部投げ出せば、誰かを意図して傷付ければ、法を犯せばいいのだから。


私にはやめられない事がある。それは煙草だったり、酒を飲みすぎてしまう事だったり、パチンコだったり、死を想う事だったり。

煙草や酒の飲み過ぎが体に悪い事なんて重々知っているし、パチンコが金の無駄だという事もわかっているし、自らの命を粗末にする事がいけない事だという事もわかっている。母親に仕送りをしてもパチンコに溶けている事もわかっている。


それらは頭の良い人には馬鹿に見えてしまうのだろう。それらは優しい人には愚かな行為に見えてしまうのだろう。けれど「そんな事はやめろ」と言われたところで私はやめられない。死を想う事も、母親に仕送りをする事も、身にならない関係を続ける事も。おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、そうしていなければ頭がどうにかなってしまいそうだし、そうしていなければ私は私である事が認識出来なくなってしまう。きっと私はどうかしているのだ。きっと頭がどこかおかしいのだ。


弱者は偶像にしやすいし、愚か者には善性の衣が似合う。天使に強いイメージはないし、悪魔に弱いイメージはない。

私は弱者で愚か者だ。不幸になりたがっているように見えるだろうが私なりの幸せというものをいつだって思い描き追い足掻いている。頭の良い人にとって私が浅瀬で溺れもがく姿は滑稽に映り、哀れに感じる事だろうけれどそのうち浅瀬で溺れている事に気付いたら後で笑い話にするからそっと微笑んで見ていてほしい。助けて欲しい時は「助けて」ってきっと言うからさ。その時は「そこ足つくよ」って笑いながら言ってくれたら嬉しい。なんてワガママ過ぎるかもしれない。

それでも愚か者には愚か者なりの生き方も覚悟もあるからどうか見守っていて欲しい。

それでは。


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