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「優しいね」と言わないで。

他に褒める所がない時の常套句なんて言われるけれど俺にはそんなに褒める所がないのかというくらい、いろんな人に言われる。

もはや優しいねと言われるのにほんの少しの安心感すらある。半ばアイデンティティと化してしまった慈しみではあるがその安心感よりもやめてくれという気持ちの方がずっと強い。


照れてしまうという可愛らしい理由なんかではなくただなんとなく申し訳なくなってきてしまうのだ。今までのnoteにも書いてきたけれど私の意識の根底にあるのは人に優しくしなければいけないという強迫観念に近い物があるのだ。それは幼稚園や保育園の時に「人に優しくしましょう」と言われた時から大人になってしまうまでに積み上げてこれなかった自己肯定感が私に「人に優しく出来ないお前に何の価値があるのか」と問いかけてくるからで、私はいつまでもその問いへの反駁を持つことが出来ないでいるままズルズルと生きている。


誰かと遊びに行く時に相手の行きたい所ばかりを尊重するのは行きたい所がない己の退屈さからであるし、仕事場で周りの人間のフォローばかりしていたり仕事を次々と請け負うのも、困っている人を見逃せないのも全てまわりの目を気にしてしまっているからなのだ。優しさなんかではない。私にとっては冷たい人間だと思われる事が何よりも恐ろしいのだ。全ては恐怖からの自衛。馬鹿みたいに醜い。

こういった聖人君子であれと言わんばかりの思春期特有の潔癖がいつだって私を苛んでいる。

私は大人になる事の恐怖をそのままに大人になってしまった。

優しくするから私から離れないで。優しい人間でいるから私を捨てないでくれと見苦しく叫んでいるのとなんら変わらないのだ。醜いのは顔面だけに留まらなかった。

優しくした所でその人が私から離れないわけではないのに。

唯一の親友はそんな私の醜い葛藤を知ってか知らずか私を「自己犠牲カス」とか「自意識ザコ」と言ってくれる。だからこそ親友なのかもしれない。

優しいって何なんですかね。

劣等感や自己肯定感の低さからくる問いに対する反駁を持つ事が出来た上で、それでも人に優しくする事が出来たらなとは思っている。その時は「優しいね」と言われた時にありがとうと返せますように。

それでは。

https://youtu.be/CjFEbf0F2EI

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