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最低羨望

高校3年生の頃、資格試験を受けに行った帰り道に友人と自転車で橋を渡った。車の走っていない所をみたことがない大きな川の大きな橋の真ん中あたりの歩道で、友人はあるものを見つけた。

それは揃えられたサンダルと携帯とキーケースだった。

すぐさま自転車を停め、橋の外側を覗き込むと川岸に倒れ込んだうつ伏せの女性を見つけた。生きているのかはわからなかった。

警察に電話して(パニックだったのか119という選択肢は浮かばなかった)生死を確認して欲しいという指示に従った。友人には警察車両、救急車の誘導を頼んで私1人で堤防を降り、彼女の元へと駆け寄った。

彼女の顔色は真っ青だったけれど意識ははっきりとしていて呻く様に痛みを訴え、声をかける私に「何故死なせてくれなかったの」と金切り声で叫んだり、「殺してくれ」と縋った。沸々とした怒りやハッキリと湧いた嫉妬に私は何も言えなかった。

呆然と彼女の横に膝をついて警察や救急隊員の到着を待っていると見ず知らずの高校生が駆け寄って来た。どうやら彼は橋の上で警察や救急車の誘導を待っている友人を見てやってきた様で、10メートル以上の高さから飛び込んだ女性がどこを打ち付けてどう怪我をしているのかもわからないままに彼女を救急車が運びやすい位置に移動させようとした。

私はそれを制止し、彼に彼女のそばに居ることを頼んだ。私はどうにか彼女から離れたかった。彼は喜んで私と交代し彼女に励ましの声をかけ続けた。「生きていればいい事がある!」とか「命を粗末にしてはいけない」とかいった言葉を救急隊員が到着するまでずっと彼女にかけていた。

私は無責任だと思った。私自身は何も言えなかったのに。

救急隊員が到着すると彼等はスムーズに彼女を運び出し、警察と一緒になって私や友人、あと知らない高校生から事情聴取した。2時間くらいかかった。

救急隊員の人は私に「彼女はきっと本気で死ぬ気は無かったと思うよ」とそう言ったけれどそんな事はどうでもよかった。死ぬ気は無くても彼女は死にたいと思ったから飛び降りたのに違いはないからだ。

普段から死にたいとよく考えてしまう私にとって死にたくて死のうとした彼女はどこか羨ましく見えた。

きっと理屈ではないのだ。彼女は死にたいと感じる程の不幸や不条理に襲われたのだ。襲われ続けたのだ。残る未練よりも目の前の希望の無さに絶望してしまったのだ。私は図々しい程恥知らずのシンパシーと実行してみせた彼女への羨望を感じてしまった。名前も知らない彼女に。


家に帰ると夕食の支度が済んでいた様ですぐに夕食だった。食欲が無いことを告げると親父に殴られた。作る前に言えと。腫れた頬のまま義母の作った料理を無理矢理詰め込んでいるともう1発殴られた。美味そうに食えないなら食うなと。

部屋に戻ってじくじくと痛む頰を抑えると笑いが溢れてきた。忌々しい程に生きている事を実感できてしまったからだった。

名前も知らない彼女の自殺未遂から7年経った今でもたまに考えてしまう。彼女がまだ生きているのか死んでいるのかを。考えたところでどうにもならないが。


私はまだのうのうと生きている。彼女も生きているといいなと思う。特に理由はない。

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