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相談に乗りたがる人たち。

アレ意味あるんですかね。どうもオナニーに付き合わされている気がしてしまう。まぁ自分の性格が悪いと言われてしまえばその通りだからそれまでなんだけど。

どこにでも一定数存在する相談に乗りたがる人たち。彼らは何を思って人に相談するように促すのか。人の事を不幸だと決め付けてないか?

今回の話は相談したいわけではない人に相談させる人についての話。これを読んでいる人が誰か友人に相談があると言われたらどうか優しく聞いてあげて欲しい。


相談に乗る時は相談の内容がトラブルに対して「解決」を求めているのか、ただ「話を聞いて欲しい」のか、そこを見分けなくてはならなくて、話を聞いて欲しい相談者に対して解決を提案してしまって…。なんてのはよく「女」の相談と「男」の相談の違いとして話題に挙がるので相談する側が「ただの愚痴なんだけど…」と言えば解決する話だ。逆は勘違いする事はまずないだろうし。わかったらラインを気にしながら昨日彼氏とした喧嘩の愚痴を相談と称して深刻顔で話すな。お前がゴミの分別をちゃんとすればよかったんだ。早く帰れ。帰って彼氏にカッとなって空き瓶を投げた事を謝れ。俺は帰ってSEKIROやりたいんだ。


今度はトラブルではなく嫌な事があった人に対して相談させる人について。解決ではなくて救いを求めている人に相談させようとする人の話。ここからが本題。ここまで長かった。どうか空き瓶は投げないで欲しい。

そもそも人に救いを与える事が出来る人間なんているのだろうか。自分を過大評価してはいないだろうか。「救いを与えられる事が出来る自分」になる事で自意識や自尊心を保つ為の道具にしてはいないだろうか。

例えば、死にたいと言っている人に対して「世の中にはもっと苦しんでいる人もいるんだ!」「生きていればいい事がある!」なんて言ったり、反対に「実際に死ぬ勇気もないくせに」「死にたい奴は黙って死ぬ」「限界の人間は死にたいなんて言わない」なんて言っていたりする人いるじゃないですか。両方とも最悪過ぎる。まさにこの世は地獄。神は死んだらしいし、仏はギャングチームを作ったタトゥー入ってる先輩がぶっ殺したらしいって中2の時の隣のクラスの内堀が言ってた。


結局つらそうな人に僕ら他人が出来るのは話を聞いてあげる事だけなのだ。そして感じた事を傷付けない範囲で伝えてあげる、間違っているところはそれとなく軌道修正する。その程度で十分なのだ。他人の苦しみなんてわかるわけがないのだから。わからないからこそ私たちは傷付け合って助け合ってを繰り返しているわけだし。

救いは飴や鞭なんかで与えられやしないのだ。誰かが与えてくれる物でもないのだ。不幸に彩られた人生だからちょびっとの幸福が尊いものになるんじゃないだろうか。なんでもないような事が救いになったりするんじゃないだろうか。友人とした話だったり、音楽だったり、絵だったり、漫画や小説だったり。


なんでも言えよ!相談してこいよ!なんていいながら自分だけ気持ちよくなったり、相談された事に満足して「相談してくれた人を救えたから自分はまだ大丈夫」なんて自分を守る道具にしたりするのはやめたほうがいい。下心満載のワンチャンあるかもも勿論だ。

私みたいに後ろ向きな考え方のままでいる事で自分を守って、なんでもないような事に救われて生きている人間もいるという事をどうか忘れないで欲しい。


人を助けるという事はいつだって素晴らしい事だけれど救いに形は存在しないのだ。勝手に救われるかいつのまにか救っているかのどちらかしかないよ。多分だけど。


それでは。

https://youtu.be/zSPEdE651y0


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