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わたしだけの桃源郷

例によって焙じ茶を淹れていると、いつかみた佇まいが脳裏に映し出されることがある。おぼろげで、すこしでも油断してしまえば、ついうっかり消え入りそうに儚い。そう、夢幻のような。

「はて、これは映画の一場面であったか」「はたまた夢でみた幻想であったか」

うつくしい記憶はみなそうだ。

現実だと気がついてしまえば、そこでみた情景のすべてをありありと映し出す。
踏みしめた土のやはらかさ。立ちのぼる珈琲の湯気のゆらめき。雨の日に窓を打つ水滴の形。ひとつとしてなくなることはない。


4月半ばのこと。

手元には、1冊の本とホットレモンがあった。
唇にふれるとほんのりあたたかく、喉を通るとひやっと沁みて落ちてゆく。数十分前まで、火傷しないよう指先のちいさな範囲だけでおそるおそる口元に運んでいたのだが、気がついたら朝露のようにひんやりしている。

数分前にわたしのあとに入ってきた女性が、声をひそめてそうっとたまごサンドを注文した。
じゅう、とたまごを焼く心地の好い音が鼓膜に届いてから、意識を逸らせないでいる。
全身の意識がそちらに向いたまま、目だけで文字を追う。
みるみるうちにまるきりおいしい匂いがしてきて、チン、とトースターの「おいしくできました」の合図。
サクサク、とトーストを切る音があまりにやさしく響くから、人生の最期はどうかこうであってほしいと願った。


外は相変わらず日が照っていて、干したばかりの布団にくるまれているようなひだまりが続く。
高架下に沿って、気の向くままにまっすぐ歩いていたら、どこからかかすかに風鈴の音がする。
そよ風にゆられてやさしく鳴らすその音を頼りに足の向きを変えると、子守歌のようにささやいたり、斉唱のように重なり合ったり、春の歌をたのしんでいるようにきこえた。

ひとしきり歌いおわると、ぴたっと音がやんだ。そのかわりに、道の先からカラカラとなにかがまわるような音がきこえてくる。
そのまま進んでゆくと、ひらけた住宅街の一角に、色とりどりのかざぐるまが並んでいた。その下には何色ものカラーボールが吊られていて、扉のうえには黄色い看板に「おもちゃ屋」とかかれている。

周囲の音がまるで消えた。
古色を帯びたたたずまいに、囚われたかのように身体がうごかなくなった。猛烈に魅かれるきもちと、取り残されたかのような不安が同時に襲ってくる。
長く続く一本道に人のすがたはなく、世界には目の前の「おもちゃ屋」と「わたし」しか存在しないように思えた。
カラカラと絶え間なくまわるかざぐるまが唯一きこえる音となり、わたしのきもちせわしなくさせる。

短く息を吐いて、日傘をそっと閉じる。
段差になった入り口に右足をかけ、奥に入ってゆく。

「こんにちは」

奥のまた奥、暖簾をかけた向こうからおばあちゃんがこちらに向かって歩みはじめる。小柄で温和そうな女性だ。アザレアの一種、ヘルムート・フォーゲルに似た、艶やかな赤色のカーディガンを着ていた。

店内には、駄菓子、シャボン玉、ヨーヨー、ミニチュア戦車、戦隊モノのフィギュアから、砂時計、ランプ、くるみ割り人形などが至るところに並んでいた。
売るため、というよりかは、見せるため、に置かれているように窺えた。


彼女は、ひとつひとつを手に取ってようくみせてくれた。
大切にしてきたおもちゃを、宝もの箱からそっと取り出して、そこに刻まれた日々を追懐するかのように。

言葉を交わしていても、現実の世界で呼吸している感覚がなく、触れたら魔法がとけたようにお店ごと霧になって消えてしまうのではないかと過った不安が木霊して心をざわつかせるから、両の手をつよく握り合った。


二段目の棚に飾られた額皿が目に入った。
まるで、深く滲む湖のような紺碧のなかを孔雀の羽がゆらめき、それが陽のひかりを反射して、自ずから煌めいているようにもみえる。海のおとしもののようなお皿だ。

アコヤ貝の額皿だという。
説明をきいていると、わたしの誕生年月に採られたものだというから、ざわついた心が一層音をたてた。運命のようなものを感じ、ものにしたい、と思う反面、ここにあることをつよく望んでいた。
ここにある限りは、きっとまた辿りつける。

小銭を搔きあつめて、足元に置かれたしゃぼん玉を買ってお店を出た。
店から離れていくあいだ、何度もうしろを振りかえり、お店の存在を確かめながら歩いていた。

そばにあった公園で、ひとりしゃぼん玉を飛ばしつづける。
そよ吹く風では、どうしても下に落ちてすぐ消えてしまう。天高く飛ばそうと、自然と天を向くかたちとなり、口のなかに流れこんできた張りつくようなほろ苦い液体に思わず顔をしかめる。

でも。

ひとつおおきく膨らんだしゃぼん玉が、たゆみながらゆっくりと空へのぼってゆく。
その先にひろがる空は、澄み切ってなめらかなアコヤ貝の紺碧に染まっていた。


わたしがこの日みたものたちは、夢よりも夢らしく、夢よりも遥かにうつくしいものだった。白昼夢のような現実。
かくれた夢幻が、歩んだ道のそこかしこにある。
これから歩む道にだって、きっと。
生きるための養分でもあり、わたしだけの桃源郷。

うつくしいものの記憶を抱えていれば、わたしはいつまでも生きていける。




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