クワロマ/アセク【私もアセクシャルです】

『雑誌アセクシャルアンソロ企画』
テーマ「私もアセクシャルです」
アロマンティックアセクシャルではない、広義のアセクシャルの個人エピソード。

連載で何人か語ってる中での「クワロマ・塔野の担当回」的に思ってもらえれば。

◆はじめに

はじめまして or こんにちは。

クワロマンティック(クォイロマンティック)
 …以下クワロマ
アセクシャル(Aセクシャル)
 …以下アセク

を自認する、塔野と申します。

クワロマ、アセクとはなんぞや?
という方は、こちら↓のページをご参考くださいませませ

セクシャリティとはグラデーション。
十人十色、感覚も認識も千差万別。
下記は、あくまで「塔野個人の経験・感覚を、塔野個人の言葉で表した」どこまでも個人的なものであって、全ての方に当てはまるものではありません。

また、自分の全てを言葉にできると思ってませんし、言葉にできたところで、100%伝わるものでもないと思っています。

ただ、
(世の中こんな人もいるんだなあ)と思う人が増えたり
(あ、これは似た感覚、自分だけじゃなかったんだ)とホッとしたりする人が、
もしかしたらいるかもしれない、とは思っていて。
そういうので、誰かの生きやすさが1ミクロンでも上がるといいなあ、と思って公開します。

自認したての不安定な頃のことも書いていますので、ちょっと重めの話も含まれますが、今は塔野、自分を受け入れ、前向きに楽しく暮らしております。


◆目次

1.自認の内容
 ・自分の性質
2.自認の経緯
 ・付き合ってみて気付いた
3.自分の性質とどう向き合っている?
 ・寂しさに向き合ってた頃
 ・最近は自由気まま

なかなかに長くなってしまいました…。
読みたい部分だけでも、よければどぞ。

◆1.自認の内容

・自分の性質
【クワロマ】
気を許せる相手(友だち、頼れる仕事仲間等)になった時点で、自分の中で「特別に大事」という感覚があります。
(感情の大きさとして、そのへんの人≦知人<<<気を許せる人というイメージ)
(「そのへんの人」にも、困ってたら親切にしたい、くらいは思っています)

「特別」といっても熱っぽいものではなく、
<慈愛・尊敬・安心・応援・癒し>といった感情が、『世間平均感覚でいう友だち・仲間』よりも、どうも自分の中では大きいようだ…という認識です。対人距離を見誤りがち(気を付けてます)
ロマ…というほどではなく、一緒に居たいという欲求は意外と希薄です。
が、(一緒にいなくていいから、何かしらで強く関わっていたい)(何かしらでサポートしていたい)(相手にとっても自分が「上記のような特別で大事な存在」であったら嬉しい)という気持ちを特定の人に対して強く持つことはままあり、アロマ・リスロマ・グレイロマの定義は、あんまりしっくりきません。

よって、つい最近知ったクワロマを名乗っています。
恋愛と友愛の明確な違いが多分自分にはない、または希薄というのが、1番しっくりくるような気がしています。

個人的な繋がりがほしいほど、大好きになる人もいる。でもその繋がりは、付き合いたいとか一緒に暮らしたいとかドキドキするとかそういうんではなく、友だちの延長線って感じ(キュン…とか、トゥンク…くらいのときめきならある…かな?)。

いわゆる「親友」ともニュアンスが異なります。親友って、もう少し相互的なものだと思うのです。片思い親友ってなんじゃそりゃ、という感じではないですか?
しかし、私の「大好き」はもっと一方的で、片思いのようなものも含まれています。

【アセク】
※性嫌悪の方は注

行為自体に対する嫌悪感はありません(搾取的なものは除く)。人の営みとして、情愛として、そういう形もある、ということは、周囲の言動から理解できます(こういう理解の仕方が、そもそも「理解してない」のかもしれませんが…)

自分の中にも、生理的欲求としての性欲はあります。
ただ、誰にも向かわずに自己完結しています。
誰ともしたくないのに欲だけあるのは、嫌悪とはいかないまでも、正直面倒に感じます。
でも生き物として持ってる機能と仕組み(ホルモンのサイクル)だから仕方ないし、1人で処理できるからまあいいか…という感じ。

その欲求を誰かに向ける、あるいは誰かから向けられるのは、「しっくりこない」としか言いようがありません。
形容し難い拒絶感、違和感、不快感があります。何をもって受け入れられるのか、あるいは受け入れてもらいたいという気持ちになるのか、まったく見当がつきません。
精神的な愛情が高まれば受け入れられるというものではなく、むしろ高まるにつれて、もとからある抵抗感がさらに強くなります。
自分の中で「誰かとしたい行為ではない」んだろうなぁと思っています。

◆2.自認の経緯

・付き合ってみて気付いた
キッカケは、大学生時代のお付き合いになります。

それまで私は恋愛経験がなく、初めてのお付き合いでした。

私は同じ時間や楽しみをゆるく共有できればそれでよかったのですが、相手はそうではなく、むしろ積極的にスキンシップ取りたい派でした。
告白された際「いわゆるイチャイチャは出来ないし、期待されても困る」と言っていたのですが、(根本認識が違いすぎるので仕方ないとはいえ)こちらが伝えたかった意図としては全っ然伝わっておりませんでした。

手を繋いでも、キスをしても、まったく一切1ミリも嬉しくなく、ただ居心地の悪さがあり、自分の心と身体が離れていく感覚がありました。
嫌いになったわけではありませんが、段々と、デートやメールでのやりとりに、プレッシャーや煩わしさを感じるようになりました。

性嫌悪…というわけではないのに、相手が嫌いではない(むしろ好き)なのに、どうしてこんなにも拒絶感があるのだろうか。
自分の気持ちを振り返るなか、
(自分の中に、いわゆる恋愛感情というものがないのでは?)とふと気付きました。

告白にOKしたとき、ちゃんと相手を好きな気持ちがありました。でも、それを丁寧に紐解くと、上記クワロマの欄で述べたような気持ちだったのです。

思えば、これまで私が持った片思いのような感情も。
単に容姿が好みで眺めていたい、だったり。
自分に恋愛感情を向けていない(すでに恋人や伴侶がいる)人の中で、とりわけ穏やかな人が、その安心感が好みだったり。

…おや?

ひょっとして、私は「世間一般でいう恋愛」を望んでいない?

周りが当たり前に恋愛しているなか、自分に経験がないことに感じていた焦りや、劣等感から逃れたい気持ちが少なからずあったりして、それで錯覚していただけで。
いざ手にしてみたら、なんか違う??

今回の相手だから嫌なのではなく、私は本当は誰とも、恋愛的な関係を持ちたくないし、スキンシップや、ましてそれ以上の行為などもしたくない!…と、思っている??

ただ、この時点では葛藤がありました。
恋愛が当たり前、という価値観で溢れていた時代、周囲の環境もあり。

恋愛から逃げているだけじゃないか、とか。
(今では全然そんなこと思わず、したいならする、したくないならしない、でいいと思ってますけど!!)

本当はやっぱり相手が気に食わないだけで、別の人ならいいんじゃないか、とか。

しかし、何度自分に問い直して、別の人に、今まで好意を持った人に置き換えてみても。
結論はやっぱり「恋愛とは違う気がする」「スキンシップや行為は心底いらない」でした。

決定打は、それを相手へ正直に相談したときの言葉でした。

「あなたのことは嫌いじゃない、好きだけれど、スキンシップは受け入れられなくて、苦しい、嫌だから求めないでほしい」と伝えたときに、

「これから慣れるかもしれない」と。

(一緒に居るには、慣れなきゃいけないのか)
(というか、「慣れる」と思ってるんだ)
(こんなに嫌で苦しいのに、全然伝わらない)

本当に、心の底から哀しくて、自分が否定されたような気持ちになったんです。

きっと相手も突然そんなことを言われて面喰らい、自分が拒絶されたように感じたかもしれないし、悪気があって言ったわけではないのは分かっています。
私の感覚を想像することが、とても難しいだろうということも。

ただ、感覚が根本的に違う、分かり合えないという事実が、本当に哀しくて、寂しくて、仕方がなかったのを覚えています。

その後、ネットでアセク・ノンセクという言葉に辿り着き、自認に至りました。
(その頃は今より分析や細分化が進んでなくて、定義はかなり曖昧でしたが)

自認したところで寂しさは癒えませんでしたが、自分のこの状態に、名前があること。
数は少なくとも、他の人にもあることだと知って、少しホッとした記憶があります。

◆3.自分の性質とどう向き合っている?

塔野の場合はどうなのか、参考までにどぞ。

・寂しさに向き合ってた頃
自認した当初は、疎外感、劣等感から、寂しくて仕方がありませんでした。
なぜ、恋愛感情や性愛に、結びつきとしてそんな重きがおかれるのか。
自分の中にある誰かを大事に思う感情が、恋愛でないというだけで軽んじられている、とも思っていました。

私は両親の性格と相性がよくなく、セクシャリティとはまた別に、自分が常に否定されているように感じて、自己肯定感が低くなっていました。
その状況での自認、周囲との落差は…結構、いやかなり堪えました。

承認欲求と寂しさを拗らせ、アセクではないか?と勝手に期待を寄せていた元友人に依存し、その元友人に恋人ができたとき、随分と傷付けて、絶交まで追い込んでしまいました(本当に、今でも申し訳ないです…)
これ読んでドン引きしてる方もいると思います。塔野自身、今振り返ってドン引き懺悔中…です…(…)

それで許されるとは思っていませんが、必死で、おそろしく視野が狭くて、色々、がんじがらめで、あの頃の自分は本当に可哀想だったと思います。

そうして、自分も他人も傷付けてしまって、なんかもうどうでもいい、生きるのしんどい、疲れた、寂しい、どうせ独りだし…そんなことをぐるぐる思っていて、それでも、本気で心配してくれた方や、変わらず寄り添ってくれた愛犬を心の支えに、なんとか死なないで繋いでいた、ある日。

天気の良い日にボンヤリと洗濯物を取り込んで、太陽に温められた布の熱を感じたとき、
ふと
(あ、あたたかい。幸せだ)
と思いました。
本当に小さな、些細なことなんですけれど。
(1人でも、幸せになれるな)
そう思いました。

寂しいのは仕方ない。
そもそも、絶対数が少ないのだもの。
しかし、このまま寂しさを暴走させたままでは、自分も含め、誰も幸せにならない。

寂しさを追いかけまわすのではなく、
自分が感じる穏やかな幸せを見つけて、
肯定して、それを守るようにしたら、
いいんじゃないかな。

そう思う、小さな転換点でした。

・最近は自由気まま
…と、いうわけで、今は割と楽しくやっています。ただ、そんなスムーズに今の状態に辿り着けたわけではないです。
自認してから転換点に着くまでに2年、納得して歩みを固めるのに5年、計7年くらいかかりました…。ここまで前向きになったのは、ここ1年くらいです。

とにかく自分のことで精一杯で、誰かを受け入れる余裕がなくて、傷付けられないように常に他人を警戒して、始終ピリピリしていました。

これは、職場の尊敬する先輩たちや友だち、旅先で出会った親切な方たち、物言わずに支えてくれる美術品や観葉植物、そして推しコンテンツ…。少しずつ安心・安堵を増やして、少しずつ軟化させるしかありませんでした。

気持ちがトゲトゲしくなるときは、一生懸命自分に言い聞かせていました。

世の中敵ばかりではない。
ピリピリしてばかりいても仲間は増えないし。何より私自身が楽しくない。
私は1人でも幸せなんだと堂々として、
それを尊重してくれる人と仲良くなろう。
そういう人たちが多い場所に出掛けよう。
尊重してくれない人からは、離れよう。
自分の生き方を否定されたくないなら、
他の誰かの生き方を否定しないようにしよう、と。

結果的に、私の周りには私を尊重してくれる優しい方、聡明な方がゆっくりと、しかし着実に増え、それが自信につながっていったように思います。ご縁を有り難く思います。

さて、そうしてある程度落ち着いて、(他人は他人。自分はこれでいい)と思えるようになっても、親しい人の結婚報告を聞くと、特に(アセク・ノンセクかも…)と、またも勝手に密かに思ってた人のやつを聞くと、
(やっぱりそんなことないですよね!ですよね!また期待しちゃってたさ!私ったら懲りない!!)(やっぱり周りと感覚が違う。仲間が少なくて寂しい。どうして私はこうなんだろう)とか、グラグラしまくりでした。

最近落ち着いてきたのはなんでかなあと振り返ると。
結局、色々誰かと比べても、私は私がなれるようにしかなれないし。
なれる自分のなかで、どう在りたいかを選ぶだけだな、という感覚を、少しずつ少しずつ積んできたから、かなあ。

他でもない、自分の人生。
他人がどうこうではなく、
自分にとって幸せか、それを周囲とどう折り合わせていくかが大事で。
配慮は必要だけど、遠慮はいらないよな。
後ろ向きに思う必要はないよな、と。

そしてそれを、自分の中で思うだけではなく、誰かに向けて発信し始めて。
結果、塔野は塔野でいいよ、と認めてくれた方々の存在も、とても大きいなと思っています。

今のアカウントで、一緒に考えてくださる方が増えたあたりから、ますます揺らがなくなった。
(たまに「ゔっ」とくることはあるけど、すぐ落ち着く)

おかげで、卑屈にならず、誰かを妬まずに生きていられてると思います。塔野の在り方を尊重してくれる方々には、本当に感謝していますし、私も、誰かにとってそういう人でありたいと思っています。

そして、生き方という意味では、今でも模索しています。別の記事で語りますが、パートナーを持つかどうか、とか。
きっと、ずっと模索しているのだと思います。焦らずに、自分の中で少しずつ、確かめながら生きていきたいです。

◆さいごに

はてさて。
色々つらつら書いていたら、こんなに長文になってしまいました。

読んでくださった方、ありがとうございました。
色んな感覚、考えの方がいらっしゃると思うので、これから他の方の記事を読むのも、非常に楽しみにしております〜!

より多くの方が、自分を過度に歪めず過ごせますように。


塔野