見出し画像

波打ち際でつかまえて

 『ライ麦畑でつかまえて』というサリンジャーの名作を初めて読んだのは、確か高校生の頃だったはずだ。読み進めるのに苦労した思い出がある。ホールデン少年が「ライ麦畑におけるつかまえ役になりたい」と吐露する場面意外は、あまり好きになれなかったからである。ホールデンは何をやっても上手くいかず、ついには学校を成績不振により退学になってしまう。作品にはそんな彼が色んなものに悪態をつきながら、ニューヨークの街をさすらう3日間が描かれている。彼は決して頭が悪いわけではない。そして本当はかなりの寂しがり屋である。それはホールデンがことあるごとに友人と連絡をとろうとする場面から伺い知れる。

 私は当時そんなホールデンが自分のように社会から落伍しそうな子供を救いたいという願いから、「ライ麦畑のつかまえ役」を夢想しているのかと思っていた。誰か周囲の大人(一番いいのは親だが)につかまえてもらった記憶がないと、人は大人にはなれないと私は感じていたのだ。私には実際につかまえて欲しかった記憶が数多くある。そのうちの一つ、小学4年生の頃の話しをしようと思う。

 その日私たち家族は季節外れの海に出かけていた。私は妹と一緒に波打ち際で遊んでいた。そんな私たちを両親は浜辺から見守っている。ふと両親が恋しくなった私は、浜辺に向かって妹と一緒に走り出した。その時である。ざぁと風が吹いて私の前髪がもちあがったのは。母親は青ざめた顔をしながら、なにその髪とたずねてくる。しまったと思ったが、時すでにおそし。髪にまつわる秘密がばれてしまった。私はその頃自分の髪を抜いていた。どれくらいの期間それを続けていたのか詳しいことは忘れたが、おそらく1ヶ月間ほどだったと思う。ご丁寧に内側の髪だけを抜いていたので、ぱっと見では良く分からなかったのである。(ただ子供が髪を抜いていれば、子どもを注意してみている親ならばすぐに気づくとおもうが)気分が台なしになった両親はピクニックをきりあげ、帰りの途につくことになった。母は帰りの車の中で怒っていた。心配するというよりも怒りの感情を露わにし、幼い私を震え上がらせた。何より外聞が気になる質の人である。翌日速攻で皮膚科に連れていかれた私は育毛剤を処方され、その日の夜から薬を塗り込められる日々が続いた。しかし何といっても小学生である。髪の毛はすぐに生えてきて、家族以外の人に「はげ」がばれることはなかった。時がたち高校受験の会場でほとんど髪のない女の子を見た際、私は絶句した。彼女に必要なものは育毛剤などではないことは一目瞭然だった。

 受け止めてもらえなかった私は、大切なものが欠けたまま大人になってしまった。怠惰ではあるけれど心優しいホールデン少年のことを懐かしく思いながら(やはり苦労しながら)、作品を読み返していたら私の中に別の感想がわき上がってきた。私は大きな読み間違いをしていたのではないか、と。ホールデンは落伍する子どもを救いたいのではない。大人になること自体が彼の中では「ライ麦畑から落ちる」ということ、すなわち落伍しているのは社会的にまっとうな立場にある大人たちを指すのではないかと感じ始めたのだ。子どもというイノセントに近しいという意味では、子どもたちが彼のいうところの欺瞞に満ちた大人にならないように阻止することができるのはホールデンただ一人である。混乱してきた。色んな解釈ができるという点が名作といわれる所以なのだろうか。いや。作者が作品に込めた真意などというものは、誰がどう考えたってすべては分からないだろう。とうの作者もそんなことは望んでないはずである。自分が適応できない世界こそが間違っているという考えは幼すぎて高校生の私には響かなかった。私は最初から大人びた子どもだった。

 波打ち際には誰にも理解されなかった私の悲しみが今も滞っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?