忠義の男 前編
母方の御先祖様に鳥居強右衛門という人がいる。(名を「すねえもん」とよむ)家系図に名前が残っているのでこれは確かなことである。強右衛門は一介の足軽である。足軽だがきちんと歴史に名を残しているのだ。彼は三河長篠城主奥平信昌の家臣であった。時は天正3年(1575年)、武田軍は長篠城を攻略せんと大軍をもって奥三河に侵攻した。長篠城は武田の大軍に囲まれ籠城することになったのである。そこで岡崎城にいる徳川家康に援軍を要請しようという案があがるのだが、武田の大軍に取り囲まれている状況の中城を抜け出すのは不可能なことと思われた。
そのときこの命がけの役割を自らかってでたのが強右衛門その人であった。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、夜のうちに城を抜け出すことに成功。翌日の午後には岡崎城にたどりついて、援軍の派遣を要請した。援軍の要請に成功した強右衛門はこの吉報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城に引き返した。しかし入城を試みる際に武田の兵にみつかり捕らえられてしまう。そこで強右衛門はある取引をもちかけられる。城に向かって、援軍はこないから城を明け渡すようにと伝えれば命を助けるばかりか武田家の家臣にしてやると。しかし最初から死を覚悟していた強右衛門はあと2、3日で援軍がくるからそれまでもちこたえるようにと城に向かって叫んだ。そしてその場で強右衛門は磔刑に処されてしまうのである。しかしこの強右衛門の報告のおかげで、長篠の兵士たちは士気を取り戻し武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功するのである。「鉄砲の三段打」で有名な長篠の戦いが始まろうとする前夜の出来事である。
記していてご先祖のあまりのカッコよさに感激してしまった。こんなに忠義心と勇気に溢れた家臣はそうはいないだろう。事実強右衛門は今も三河武士の鑑として崇められているのだ。強右衛門について教えてくれたのは母だった。奥三河に家族と出かけた時に、母親が何ということもなくこの強右衛門の話をしだしたのである。しかし母親は話の最後をこう締めくくった。何か残念な人よね。最後は結局殺されてしまうし、と。場を盛り下げることに関しては右にでるものはいない母親らしいエピソードである。私があまり歴史に興味がもてなかったのもこの時の母の発言が大きく影響している。(子どもの興味を摘み取ろうとする大人には本当に困ったものである。そういう人にはなりたくないものだ。)
実際このことを知人に話したら、そんなご先祖をもつことは本当に素晴らしいことだ。コナちゃんが供養すべきだと力説された。その言葉に後押しされて私は調べた。強右衛門の墓がどこにあるのかを。墓は二つあった。一つは新城市にある新昌寺というお寺の境内に。もう一つは強右衛門の妻の故郷である作手村にある甘泉寺に。なぜ二つあるのかというと慶長8年(1603年)に鳥居の子孫により甘泉寺へと移設されたとのこと。(一説にはこの墓は織田信長が強右衛門を弔うために建立されたと伝えられている)その後新昌寺では宝歴13年(1763年)に有志の手により墓が再建された。近くには強右衛門の最期の地にちなんで鳥居駅という駅があるくらいなのだ。私は急に胸がドキドキしてきた。気持ちが冷めないうちに私は甘泉寺に電話をかける。電話口にでたのは住職の奥様だった。私は強右衛門の子孫であることを名乗り、明日の午前にそちらに伺いたいという旨を話した。奥様は快く受け入れて下さった。こうしてご先祖の供養に作手村に向かうこととなったのである。
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