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【エッセイ】クリスチャンの友人

 大学がミッション系だったということもあり、私にはクリスチャンの友人が何人かいた。それまでの私とキリスト教の関わりといえば妹がミッション系の幼稚園に通っていたので、彼女のクリスマスの舞台劇を観に行ったことがあるくらいのものだった。イエス・キリストの降誕劇である。子どもたちの劇はとても可愛らしく、私の心に暖かいものを残してくれた。年月がたち大学生になる頃には、私は自分の生きている意味が本格的に分からなくなってしまった。そんな時クリスチャンの友人と出会い、「聖書を読む会」にたびたび誘われるようになった。私は当時特にキリスト教に関心があってこの会に参加していたわけではない。熱心な友人たちに引きずられるままにというか、どうしても彼らとの交流を断ち切りたくなくて無理やりに参加していたという感じであった。私にはいつも暖かく迎えてくれる友人がどうしても必要だったのである。幸いクリスチャンの友人たちは皆一様に優しい人ばかりで、私が最後まで大学に通うことができたのは彼らのおかげといっても過言ではない。

 大学の空いた教室を使って、私たちは大抵二人一組で聖書を読んだ。聖書の言葉は難しく一人で読んでいると途中で寝てしまうことも多かったので(失礼)、このシステムはありがたかった。クリスチャンの友人たちは精神が穏やかで何か大きなものを常に見ているように私には感じられた。皆口をそろえて言うのだ。「イエス様がいつも共にいて下さる」と。確かにイエス・キリストの十字架のあがないにより、全人類の原罪(生まれながらの罪)は赦された。私たちは祝福された存在である。私にはそのことが意味としては何となく分かるのだが、感覚的には了解できないのだった。

  先輩にいつも前向きで明るい女性がいた。私は最初その先輩を無条件に尊敬していた。 尊敬が嫉妬に変わったのは、彼女の家に遊びに行ってからである。優しい両親を見ているうちに、彼女が自信に満ち溢れて生きていられるのはイエス様のおかげではなく、彼女の家庭が暖かいものであるからだと考えを改めたのだ。私は自分の冷え切った家庭と比べて、彼女の境遇を羨ましく思った。そして段々と彼女の自信に満ちた態度がうっとおしく感じられるようになり、私の方から次第に距離を置くようになった。それでも先輩は自身が就職した後も、私のことを気に掛けてくれていた。今振り返ってみると逆恨みもいいところなのだが、私も当時それだけ心が苦しくさまよっていたのである。友人欲しさに参加していた会ではあったが、心の片隅にはやはり何かにすがりたいという気持ちがあったのだろう。私は自分の生きる意味をいつも求めていた。その答えが聖書の中にあるのではないかと無意識に思い、それに一縷の望みをつないだのである。結局のところ私はクリスチャンにはならなかった。友人と共に教会にも足を運んだのだが、キリスト教の教えは私にはなじまなかったのである。

 私はある時唐突に近所の教会に入ってみたことがあった。皆優しい方たちばかりで、私はあの頃のような温かい空気に包まれていることを感じた。斜め前に座っていた女性に大学生かたずねられる。化粧っけのない私は実年齢よりかなり若くみられるのだ。私が〇✕大学に通っていたことを話すと、その女性は「まぁ、優秀な大学ね」と褒めてくれた。謙遜しながら私はこう思った。そうです。私は確かに優秀な大学に通っていました。ただその大学時代に一度も大学を好きになったことはなく、むしろ大学を憎んでいるくらいでした、と。私は本当にあの頃愚かだったのである。



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