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忠義の男 後編

 早朝私は電車とバスを乗り継いで新城市の作手村を目指した。何しろ交通の便が悪いところなので乗り遅れなどがあってはならない。バスの中では通学途中の高校生に揉まれながら甘泉寺の最寄りの駅に到着する。なんと住職自ら迎えに来て下さった。ありがたいことである。寺は山の中にあり、国の天然記念物とされているコウヤマキが私を出迎えてくれた。墓はその巨樹の近くにひっそりと佇んでいた。私は持参してきた線香をあげ手をあわせた。女一人で訪ねてきたというのが珍しかったのだろう。お参りがおわると住職は私を寺の中へと招き入れた。いつも公開するわけではないのだけどといいながら、私を寺の奥の方へと案内する。

 住職は私に室町時代から伝わるという涅槃図をみせてくれた。涅槃図をみるのはこれが初めてのことである。淡い色合いの図には釈迦が入滅するところが丹念に描かれている。私は感激しながらそれを眺めていた。こうして甘泉寺への参拝を終えた私は、今度は最寄りの電車の駅まで送ってもらえることとなった。本当にありがたいことである。帰りの車の中で強右衛門話に花が咲く。ご先祖の体力が半端ないこと、本当に山の中を駆けていったことなどを我々は話し合う。(長篠城から岡崎城までは約60キロ超である)重ね重ねのお礼を述べながら新城駅で住職と別れた私が次に目指すのは新昌寺である。

 その前に長篠城跡と保存館も是非見ておかねばと考えた私は長篠城駅で電車を降りた。徒歩で長篠城址史跡保存館に向かう。城跡が断崖の上にあることを確認しながら保存館にて強右衛門の活躍をしのぶ。入り口には早速強右衛門の磔刑の図の模型があり、いかに彼が地元の人々から愛されているかが一目でわかった。そして中には所狭しと貴重な品々が展示されている。「血染めの陣太鼓」とよばれる籠城の際に兵士たちを鼓舞するために使われたとされる陣太鼓、各種の火縄銃や出土した弾丸などを子細にみてまわった。資料館を後にした私はそこから徒歩で新昌寺に向かう。この道のりが結構遠かった。途中で道が分からなくなり、森のようなところを抜けながら(気分だけはさながら強右衛門である)新昌寺にたどりついた。こちらの墓は大きくて実に立派であった。それもそのはず。「もっと墓を立派にしよう」と大正8年(1919年)に地元の人々がお金を出し合って建立したのだから。ここでも強右衛門は愛されていた。

 そして最後に私が向かった先は強右衛門が実際に磔刑に処された場所である。ここは新昌寺からほど近い田圃の傍であった。田圃を突っ切った奥のほうに「磔刑の碑」が。手を合わせながら彼の辞世の句をかみしめた。「わが君の命に替る玉の緒をなどといひけん武士の道」直訳すると「命を主君のために捨てるのは武士として惜しくない」という意味になる。いかにもご先祖らしい辞世の句である。こうしてご先祖供養を終えた私は、最寄りの鳥居駅から帰ることにした。鳥居駅で電車を待つ間保存館でもらってきた資料に目をとおす。結構な道のりを歩いたなと辿ってきたルートを確認していると、気になる言葉が目にとび込んでくる。強右衛門が生まれた豊川市に松永寺という寺があり、そこでは毎年鳥居祭なる供養祭が執り行われているとのこと。地域の祭りなのであまり大々的なものではなくて強右衛門の子孫やファンが集ってしめやかに行われるということを私は新たな情報として手にいれた。

 結局未だにその祭りには行くことができていない。我が家と同じく鳥居の血をひく方々と是非お話してみたかったのだが。私のように長年強右衛門にあまり関心を持たなかった方などいるのだろうか。そのような人は最初から祭りに足を運ばないだろうとひとりごちた。私は関心をもてて本当によかったと思う。


 

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