「触ること」から始まる探求
皆さま、ご機嫌よう。
わたしはここ2か月、寝る前に自分のからだを丹念に触っている。
えっ?どこ触ってんの?!
とも、言われかねない、この「触る」という表現は、非常に誤解を生みやすい。「触る」というより、「触れる」としておこう。(「触れる」と「触る」、同じ漢字を書くのに、どうしてこうも語感が違うのだ。。。)
とにかく、丁寧に自分のからだに触れている。
足指、足先、くるぶし、ふくらはぎ、膝、腿、鼠径部、臀部、骨盤まわり、、、鎖骨から肩に向かい、指先まで撫でる。首から顔、頭部へと触れていき、手に任せてからだに触れていく。時には骨を感じながら撫でることもある。時には肺胞のひとつひとつを感じるように。時には、上行結腸―横行結腸―下行結腸―S字結腸をたどるように。
そして、「ある日、突然それは起こった。」というような出来事が、時々起こるようになった。
始めに起こったのは、頭を撫でていた時のこと。
頭をやさしく撫でていると、わたしではない誰かに撫でられているような気持ちになってしまい、涙が止まらなくなってしまったのだ。よしよし、いいこいいこ、がんばってるね、、、という言葉にならないねぎらいの言葉が心のどこかにこだましてきて、たまらない気持ちになってしまった。
次に起こったのは、歩き疲れた足を撫でていた時のこと。
筋肉組織の中は、筋繊維が束になっている。その筋繊維を創っているのは筋原繊維という筋なのだが、そこを這う毛細血管が切れたり引きちぎられているビジョンが突如として浮かんできたのだ。そればかりか、血管は自らを修復しようとしていた。あぁ、わたしがからだを酷使し、痛みに文句を言い、自由に動かせないことにがっかりしていても、からだは自ら修復し、治ろうとし、前を向いてただ生きようとしているんだ。妄想かもしれないが、わかちゃった・・・と、圧倒されたのだ。
また、これはただの一度ではなく、何度となく起こっていることなのだが、正直一番不思議な気持ちになっている。何が起こっているのかというと、「自分のからだは自分だけれど自分ではない」と、往々にして感じてしまうことである。からだに触れ始めると、「あぁ、きもちいいな」とか「安らぐな」という気持ちになるのだが、次第に、これ(からだ)は自分のものではないのだという認識に変わってしまう。誰かほかの人のもの、、、ということでもないのだが、わたしのものではない何かに、わたしが入っているというか、、、。うまく説明できないのだが、からだは自分のものではないのだという感覚に包まれ、不思議な気持ちになるのだ。
サンダーバードで言うと(なぜサンダーバードなのかといえば、、、平成になってリバイブされたアニメ版に、幼き頃の息子ともどもハマってしまったからだ。→http://thunderbirds-are-go.jp/)
わたしがスコットだとして、スコットの操作するサンダーバード1号がわたしのからだという感覚なのだ。
ちなみにわたしのイチオシはバージルだけど。
つまり、「わたしのからだはわたしの乗り物」という感覚に、ときどき包まれるのである。
「からだ」と自分とが切り離されてしまう感覚、それはわたしには初見のことだったわりには、頻繁に起こる。そこには恐れも不安もなく、愛と感謝しかないのだ。
ということで、「おさわり」ではありません。「触れる」ということに、根源的に取り組んでみるのは、自己探求を深める上での一つのポイントなのではと感じた次第である。
今後は、人のからだを触ってに触れて、どんな深まりがあるのか、ということについても探求していきたい。(娘にそんなことをしたものなら全力で拒絶されるし、夫婦でやっているとエロくなってしまい、いまいち深まらないのが悩みです。)
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