忘れていく

最近、「記憶」に思いをはせることが多い。

人から言われたことが3つ超えたあたりから全部の実行が難しくなるので、
1、2、3の次はいっぱいだと痛感したり、
考え事をしながら風呂場で歯磨きをしようとすると、
口の中に洗顔料の味が広がったり、
温かい気持ちになれる大切な思い出を思い出そうとしても、
細部が思い出せなかったり、間違えてしまったり、
記憶とは、なんとも不確かで、味わい深いものです。
少しばかり、記憶をテーマに観じてみます。


五感で感じたものを思い出そうとしても、これはなかなか難しい。
確かに、昔見た景色を目蓋の裏に投影できることはあるし、
聞いたことのある歌が頭から離れないこともある。
だけど、梅干しの味を思い出そうとしても、
「すっぱい」という言葉が出てくるばかりで、
口の中がすっぱくなるわけではない。
指に針が刺さったところを思い浮かべても、
痛いだろうなぁ、とは思えても、リアルに痛みが走るわけでもない。

感情そのものを思い出すのも難しい。
嬉しさ、怒り、哀しさ、楽しさ、
感情だけを取り出すのも至難の業だと思う。

次に、具体的な過去の出来事を思い出したらどうだろう。
昔々、いじめられたり、恥をかかされたことを思い出してみると、

むむむっ、期待と違うなぁ。
当時感じた怒りが蘇るかと思いましたが、
なんだか懐かしくて、みんな元気かなぁ?

過去の私と、今の私は、同一人物だと確信はしていますが、
過去の私と、今の私は、体の大きさも違えば、組成している細胞も違う。
心がどこにあるのかは知りませんが、
少なくとも、脳みその細胞やその繋がりは変化しているはず。
可塑性ってやつです。

思い出は偽物かもしれません。
思い出す場所によって変調がかかるかもしれません。
今楽しければ、過去の嫌な記憶も楽しくなり、
今苦しければ、過去の幸せな記憶も不幸に塗り変えられてしまいます。

もはや事実は二の次で、本当のことなんてわからないしどうでもいい。
解釈の時間の矢は、常に現在から過去に向かって走っています。


人は死ぬときに、走馬燈のように過去を思い出すという話がありますが、
思い出される内容にも相当な変調がかかるんじゃないかと思います。
死ぬ直前に幸せだと感じていられたら、あらゆる過去は肯定され、
死ぬ直前に不幸だと感じていたなら、あらゆる過去は否定されるかもしれません。

今の私には、将来の私がどちらなのか知る術はありませんが、
自分自身の機嫌をとって、過去の自分を肯定することや、
将来の自分が思い出す物語のネタを増やすことはできます。

できるだけ今感じている感覚を大事にして、
ジェットコースターのような喜怒哀楽に振り回され、
四苦八苦に七転八倒しても、
機嫌と解釈だけは前向きに、
死ぬまで生きていきたいと思います。


お読み頂いありがとうございます。記事が役に立てばうれしいです。このエリアまで読んで頂いた方が、これまでもこれからも幸せでありますように。