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色々なスピリチュアルメッセージ

こんばんは。

あれこれと思うところがあって、何人かの人から頂いた
自分宛てのスピリチュアルなメッセージを整理していました。

僕は自分の声が苦手なので、例えば会話を録音していても
結局は聞き直すことなんてほとんどないのですが、今回は
自分の心の棚卸も兼ねて、頑張って自分の声と戦いつつ
メッセージを整理しようと思ったのです。

ちょっと長い引用ですが、今年の2月くらいに頂いたメッセージを自分の感想を挟みつつ書いていきます。
会話の中でのメッセージなので、内容がまとまっていませんが、ご容赦ください。
メッセージを聞いていたときは、そもそも頭の中で処理が追い付いて
いなかったせいもあって気付きませんでしたが、こうやって聞き直して文章として、書き記してみると、他の人にも似たようなことを言われてるなと苦笑いしそうです。微妙に言い回しが違っても、ところどころのキーワードは驚くほど、似通ってるんですね。

人の悩みを聞きながら、物事の本質をついたり
絡まったものをひもといて、解決の糸口を見つけて
人生の本質や幸せに気付かせて、正しい道を歩む手伝いを
するということを過去世でもずっとやってきている。

個人的な感情を出さずに、半分は自分でありながら
もう半分はご神仏の意思を顕現させて、相談者の道を
照らしてあげることが今生のお役目の一つ。
そうして、相談をしてきた人たちが元気になったり、
笑顔になったりする姿を見たいという魂の願いを持っている。

過去世でも仏教僧その他、聖職者としての人生を幾度も歩んできているようなので、そのせいだとは思いますが、人の悩みを聞いて、それに対して解決の糸口を提示することに長けていると言われました。今生でもその役目があるのなら、紆余曲折の人生もより多くの人の悩みに寄り添えるように、自分の人生をそういう風にプログラムしてきたのかもしれません。

人を支えて、俗世に送り出す。人が迷ったら、その道を照らす。日本の光を増やして、強くする。それが使命。
人というのは暗闇のほうに目が向きがちで、そうすると体まで暗闇のほうに向かっていってしまう。そういう人たちに「こっちだよ」と明るい方向へと誘導してあげる。

日本の光を増やして、強くする。すでに、そういう活動をされている方を知っています。その方に比べると、大したことは出来ていませんが、暗闇で迷っている人たちの行き先を照らす道しるべになりたいと、自分でも思っています。
BUMP OF CHICKEN の「ゼロ」という曲の冒頭部分が大好きです。
”迷子の足音消えた 代わりに祈りの唄を そこで炎になるのだろう
続く者の灯火に”

そういうことを神様仏様と二人三脚でやっていく。だから、半分は自分の人生でありながら、もう半分は神様仏様の指示というか、彼らの思い描く人生を歩むことになる。半分は自分で漕いで、残り半分は神様が漕いでいるような感じなので、自分がこういう風な人生を歩みたいと思っていても思い通りにならないというか、大いなる意志からは完全には抜け出せないと思います。

おおいなる意思、サムシンググレートと言うやつでしょうか。だからといって、自分の人生に何かが介入してきているという感じは受けないですね。一度だけ、自分の人生に大きく介入してきたと思われる局面がありましたが、それくらいです。その介入がきっかけで、お坊さんになりました。

仏教というのは言語化に長けた教えで、その仏教の教えと言霊を使って人々を納得させていく。

人々を納得させていくという言葉で思い出したのはおりられオジさん、というか彼に言葉を降ろしている神様的な存在の方に言われたこと。『遠慮せず、堂々と、伝えたいことを伝えてください。あなたが伝えれば、人々は納得します。納得した上で、行動に移すでしょう。そうすると結果がついてきます。その結果に対して、きっかけを作ったのは、あなたが遠慮せずにその言霊を、人々に与えることができたからに他なりません。どうぞ遠慮なく、人々の心に、気高くも温かい、友の心を差し上げてください』
録音を聞き直して、文字に起こして初めて気づきましたが、まったく同じことを言われてました。ほぼほぼ同じ時期に、同じことを言われているのに全く気づきませんでした💦
今回が改めて、見直すタイミングだったのでしょう(という事にしましょう)

現世の天と地の狭間、神様仏様と俗世間との間に人々の居場所を造り、その管理者となる。

最後の最後の文章、話を聞いていたときはさらっと聞き流してしまったんですが、こうして文字で起こすと、かなり不思議な字面ですね。この一文を見たときに、ベルギーのスピリチュアリスト、Hakuhoさんの言葉を思い出しました。僕の魂の価値観、生涯を通して関心を持つ事柄として、『魂図書館の司書』という言葉を仰っていました。あまりにも突拍子のないキーワードですが、司書というワードと管理者というワードが自分の中で重なりました。

こんな感じで、人によって表現に違いはあれども、結局は似たような事を仰っていまして、ようやく自分が今生でやるべきことを受け入れられそうな気がします。今まで受け入れてなかったんかいって、ツッコまれそうですが、正直、そんな立派な人生を歩んできた人間ではないので、人さまの相談に乗るなんて、おこがましいと考えていました。自分の書いた本を読んでもらって、それぞれが何らかの気付きを得てくれたら、それでいいかなと思っていましたが、どうやら甘かったようです。繰り返しサインを送られていたのに、完全にスルーしてました。いい加減にしないと、それこそ神様に怒られそうですね。

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