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エチオピア ティグライの戦争について


恐らく多くの方がご存知のとおり、11/3(火)深夜にエチオピアで私が住むティグライ地方で内戦が勃発し、その影響でずっとインターネットが遮断されています。そのため知り合いの皆様にご連絡が取れず、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。私はすこぶる元気で、知人・友人も全員無事です。メケレ大学も2月から再開していてインド人教員もかなり戻って来ており、インターネットが使えないことと、夜間外出禁止令、それに頻繁な停電以外はかなり日常が戻りつつあります。現在、インターネットを使った仕事をするために1週間だけ首都アディスアベバに来てこの投稿をしています。

メケレは11/28に連邦政府軍に掌握され、その後、メケレへの攻撃は私の知る限り発生していません。しかし、戦闘自体はティグライ州各地で今もまだ続いています。戦争は終結したとの政府発表もあったようですが、終結していません。いろいろな方に戦争について聞かれるので、簡単に状況をここに書いておきます。(写真は11/19のジョギングロードからの風景です。収穫の時期で、丸い山は収穫された脱穀前の小麦が積み上げられたものです。)

1. 戦争のごく簡単な背景

今回の戦争は、1991年から2018年までエチオピア全体の政権を実質的に握り、ティグライ州ではまだ主力であったTPLF (Tigray People’s Liberation Front)と中央政府の争いに、中央政府に呼び込まれたエリトリア軍(元々ティグライに対する反感あり)が加勢しているというものです。しかし私もすべてを深く理解しているわけではなく、また意図的なプロパガンダも両陣営からあって情報が錯綜しており、責任を持って真実を伝えられる自信がないため、経緯を詳しく解説することは避け、極簡単な説明にとどめます。

2018年に現在のアビー首相が就任して以来、TPLFはエチオピアの中央政府での影響力を失い続け、2019年12月にアビー首相を中心にProsperity Partyという新しい党が結成されてからは野党となっていました。そんなこともあり、ティグライ州での不満は蓄積しており、エチオピアから独立したいと考える人たちも増えてきていました。また2020年にはコロナ防止という理由で予定されていた総選挙が延期されたのですが、ティグライ州ではアビー首相が不正に任期を延ばしているとして、中央政府の静止を振り切って9月に独自に州政府選挙を強行しました。これを独立に向けた第一歩と見なす向きもあり、これも緊張を高める一因となっていたようです。また選挙の前には内戦に備えてティグライ州内で市民兵の訓練が始まっているという話も聞いていました。一方ティグライ外では、TPLFやティグライ人が不正に富や権益を独占しているとの認識を持っている人や、TPLFが中央政府の弱体化をねらってエチピアの地方の暴動などを煽動しているとの認識もあったと聞いています。


2. 空爆とミサイル

戦争が発生した後1週間程はメケレでは戦争らしいことはほとんど起こっていませんでした。その後、単発的・局地的な空爆が発生しはじめました。

11/16には私もかなり離れた場所からでしたが、戦闘機(1機)が大きな音をたてて飛んできて、爆弾を落とすのを目撃しました。戦闘機から3回ぐらい白くて小さい雲のようなものが出て来て、同時に大きな音がして、戦闘機はすぐに去って行きました。戦闘機の音はかなりうるさく、一緒にいた近所の犬が恐れて走って逃げていきました。

それ以降、11/28の中央(連邦)政府軍メケレ掌握まで空爆は断続的にありましたが、何日かに1回、飛行機が1機で飛んで来て、1カ所空爆して去って行く・・・のような感じで幸い「大空襲」のような感じではありませんでした。11/28には特にメケレ北部の山の近くでもっと集中的な空爆が行われていたようですが、私の家は南部に近いことと、雷も鳴っていたため、私の家からはほとんど音は聞こえませんでした。

第二次世界大戦のような夜間の空爆はありませんでしたが、夜間はティグライ側からミサイルが数発発射されることがあり、これはかなり大きな音でした。このミサイルは、ティグライからバハルダール、ゴンダール、エリトリアなど、メケレへの空爆の拠点となっている空港を攻撃していたとの認識です。

メケレから2時間ぐらいのアビアディなどで両軍が大砲を撃って戦っていたようで、特に12/1〜3はこの音が昼夜問わずひっきりなしに聞こえてきていました。あと、メケレではありませんでしたが、地方ではドローンによる中央(連邦)政府軍の攻撃があり、これがかなり恐怖だったようです。11月下旬から12月にかけて、ドローン攻撃を避けるため、地方から来た車の車体が泥で塗りたくられているのをよく見かけました。

11/28にメケレに中央(連邦)政府軍が入って来た後、メケレを戦場にするのを避けるためTPLF幹部がメケレを即座に離れたこともあり、メケレでは大きな戦闘は起こりませんでした。また、私は戦争というと「辺り一面焼け野原」のイメージがあったのですが、第二次世界大戦で日本が受けたような爆撃はなく、建物やインフラはダメージを受けていません。激しい戦闘があった地方は分かりませんが、私が訪れた北部のウクロやハウゼンの町中では建物自体は残っていました。(ただしエリトリア軍などによる略奪行為により窓ガラスがほとんどの建物で割れてしまっていました。)


3. 市民の被害

この戦争による市民の犠牲者はいないということになっているとも聞いたのですが、そんなことはまったくありません!!12月下旬から1月中旬まで、アイデル病院で働く外国人の友人が患者さんに栄養のある食事を提供するプロジェクトを個人的にやっているのを少し手伝っていたのですが、南ティグライの家のベッドの上で爆撃を受けて重傷を負った姉妹(3人姉妹の1人は亡くなったそうです)、骨折して1週間以上病院にも行けなかった子ども、戦争が終わったはずの1月になってから頭に銃弾を受けて国境なき医師団に緊急搬送されて来た一般市民の男性を直接見ました。(幸い、数日後に一般病室に入院されているのを見かけたので、大事には至らなかったようです。)

また直接の負傷でなくても、戦闘中に家で出産しようとして難産(死産)により重傷を負った女性も直接見ましたし、友人のお姉さんはウクロに住んでいたのですが、人工透析が3週間できなかったことが原因でお亡くなりになったと聞いていますし、メケレでも2月中旬に日本留学経験者で糖尿病患者のメケレ大学の教員が、必要な薬で有効期限内のものが手に入らず、失効済の薬を飲んでから容態が急変しお亡くなりになったそうです。(私も2、3回お会いしたことがあったのですが、学内でも非常に尊敬されている方でした。)

戦闘以外の暴力、レイプ、略奪行為の話も山ほど聞きます。2月初旬にもハウゼンでも友人の親戚が、村から町に食料を調達に行った帰りに連邦軍(恐らくエリトリア軍)に袋だたきにあって重傷を負い、同じ日に村の家にも連邦軍が来て山羊や羊などを略奪していったそうです。特にエリトリア軍による略奪はひどく、工場などの機械などもかなり持って行かれてしまっているようです。また、これは真偽がよくわからないのですが、北部の病院では大きいゴミ箱まで持って行かれたとの話を聞きました。(しかも開け方が分からず、ゴミも含めて持って行ったとか・・・。)メケレの友人の家には、12月に連邦政府軍の制服を着て銃を持った8人組(恐らくエチオピア人)が強盗に来て、スマホなどを取って行ったそうです。

メケレでは11/28以降は戦闘はないものの、外出禁止令(当初は午後6時、現在は午後8時)を破った人に対する中央(連邦)政府軍の発砲があり、これで射殺されたという話を結構耳にしました。(TPLFの支援者の家を軍隊が訪れての直接射殺もあったと聞いていますが、これはかなりの又聞きで真偽が分かりません。ただ何件が別の話を聞いたので、可能性は結構あると思います。)ここしばらくは幸い銃声はまったく聞いていませんが、12月は特に頻繁に聞いていました。メケレの国連の近くに住んでいた外国人の友人は、実際に撃たれて亡くなった方を見たそうです。幸い私の近所は中心から離れた住宅地で軍も警察も基本的に来ない場所だったので、近所で銃殺されたという話はありませんでした。でも、隣の家の人の親類が町の中心で実際に射殺されたそうです。

5. ライフラインの遮断

戦争が勃発した11/4以来、ティグライ州の電気、電話回線、インターネット回線、銀行などが連邦政府により停止され、一般市民の生活は大きな影響を受けました。インターネットは4/14現在まだ遮断中です。電気と電話回線は、11/4〜12/13まで中央政府に遮断されていました。(ただし、11 月中はティグライ軍が独自に復旧させ、電気は11/6〜12/1昼頃まで使用可能、電話は11/20から12/1までティグライ州内の一部のみ無料通話可能でした。)銀行は11/4〜12/27まで閉鎖されていましたが、11月後半は銀行内にある現金を利用してティグライ独自で再開、ただし銀行のデータにアクセス不可のため残高についての証人が一緒の場合のみ1人2000ブルまで引き出し可能となっていました。地方では停電と電話回線遮断はもっと長期間に渡っていたようですし、銀行については未だ再開していないところもあるようです。メケレもATMはまだ使えません。停電はメケレでも未だに長期のもの(2/17〜2/24夕方、4/1午後〜4/7午後)含め、頻繁です。

また、特に11/28にメケレが中央(連邦)政府軍に掌握されてから12月上旬にかけて、物流の停止から食料不足が深刻になっていました。パスタや野菜などの値段が4、5倍に高騰したり、バナナなど特定のものが完全に消えたりしていました。この期間は家の敷地に住む家主さんや近所の人たちとお互いに持っている食べ物を融通しあって過ごしました。(私が買いためてあったパスタを家主さんにあげて、家主さんが料理したものを一緒に食べるなど。)幸いメケレでは12月中旬からマーケットも再開し、お金がある限り食料調達には困らなくなったので私はまったく問題ないのですが、地方の人たちやそもそも貧しかった人たちはまだまだ大変だと思います。

6. メケレに残る決断

戦争が発生した後、11/20まで国連が外国人や他の地域のエチオピア人の退避オペレーションをしていました。確か3回行ったと思います。これに乗って文字どおり「(スーツケース15kgを1つ以外)すべてを捨てて退避する」選択肢もあったのですが、戦況が悪化した場合に退避するための準備はしながらも、自分の判断でメケレに残ることにしました。最後の国連の退避が行われたのは11/20だったのですが、それまでの期間は愛猫たちへの愛だけではなく、戦況の判断(特に最初の1週間は退避を模索もしませんでした)、パスポートと在留許可証が在留許可証更新のため手元になくありかも不明だったこと、荷物整理ができていなかったこと、主にお金関連の実務的な理由もあり「すべてを捨てて退避する」選択肢はとりませんでした。

11/28にメケレが連邦政府軍により掌握された後も、まだ残っていた外国人や他の地域のエチオピア人が自分で車を使ってメケレを脱出していたりをしたのですが、そもそもこの道中がメケレに残るより安全だとは思えなかったこと、そして何より「もしボタン1つで猫たちや荷物と一緒にどこにでも移動できるとしたら、どうするか」と考えた時に、日本に戻ることにはまったく魅力を感じず、メケレに残りたいと心から思えたので、メケレに残ることにしました。

仕事ができる状況ではなかった11月中旬から12月中旬は、家と日本語LL教室の断守離と片付けと掃除、ティグライ語の勉強、そしてこちらの外国人やエチオピア人の友人たちとゆっくり話をして過ごしました。家の掃除はコロナでの自宅勤務で進んではいたのですが、今回ようやく片付けはいったん完了、掃除も何年も掃除していなかったタンスや棚の裏、ベッドの下などを一通り終え、ようやく天井や壁の高い部分まで目がいくレベルになりました。日本語の教室も古い書類を捨てるなどしてかなりすっきりしました。ティグライ語は辞書と教科書を見ながらですが、短い作文が書けるようになりました。

メケレにいたくても居続けられないかもしれないという状況を経験した後では、ここで人々と話したり、美しい景色を見ながらジョギングをしたり、愛猫たちと戯れる時間のすべてが貴重に思えるようになりました。私の場合、仕事が忙しくなるとすぐに日常生活がおろそかになってしまうのですが、もっと大切にしようとようやく思えるようになりました。皆様にご心配をかけた大変な経験ではありましたが、個人的には必要な経験であったのだと思います。

今回の経験で、本当にメケレが「Home」になっていることを実感しました。後、今後こちらで日本語教育以外にも是非チャレンジしてみたいことも出てきました。今、無事で健康でメケレにいられることへの感謝を忘れず、この地域のために微力でも私が与えられた力を使って行きたいと考えています。

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