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今日の世界

今日こんにち2024年、3月19日に、私はnoteをはじめ、筆をとることになりました。いろいろな合間に投稿するので、多くは述べられないかもしれませんが、よろしくお願いします。
 ところでですが、皆さんは日々をどうお過ごしでしょうか。毎日仕事に行きながら、時に趣味の時間に打ち込んだり、はたまたどこかに出かけたり。いろんな過ごし方があると思います。しかしながら、色々なことを行いつつも、私たちがこうして今住んでいる世界とはいったい何なのだろうと、考えたことはありますか? 時に雨が降り、時に日が差し、夜が訪れ、日が巡る。
ものを食べ、足を運び、疲れ果てて、また眠る。
そうして多くの人々が日常を過ごし、そして時間というものは容赦なく過ぎ去っていっています。しかし、この今日こんにちの日常を支え、日々の生活、より正しくいうなれば私たちが「日常」と思い込んでいる生活は、いったいどのようなものによって作り出され、今このようにして受容しているのでしょう。我々が乗っているこの肩とは何なのでしょうか。
 ひとたび足をとどめて振り返り、今まで私たちが無意識に受け入れていたものを問い直してみると、どれだけ曖昧で明瞭でないまま受け入れていたのかと気づかされます。しかし、そんな不透明さを前にしてしまうと、足元の地面が抜けてしまうような気がして、誰もが目を背けようとするのです。しかし、でもだからこそ、そのあいまいさを一つ一つ明瞭にしてゆこうと足掻き、形作ろうとする事のみによって、はじめて自分が立っている世界と、周りの人々と、そして自分自身をわかることができるのです。
 普段、その多忙さに考える暇もなく、通り過ぎている人も、或いは暇であるがゆえに考え尽くして、日々を過ごしている人も、もう一度この「私たち」という存在を一緒に考え直してみませんか。

 難しいことはありません。ただゆっくり考えを巡らしてゆけばよいのです。ただ瞬時に考えを表現できる人が、頭の良い人間だというわけではありません。また、答えを出すことが目的というわけではありません。
ただのんびりと、しかし着実に、答えのないものに対して思考を投げかけ、時にはぼーっと眺め、考え、とらえ方を生み出してゆく、試行錯誤し続けるということが、いつしか自分という一人の人間を振り返ってみたときに、それを形作る礎となっていることでしょう。それも、一人で行うのではありません。ある意味では恐怖とも言え、ある意味では拠り所ともいえる、ほかの人とも少しお話をしながら、考えを作ってゆく。これが本当の意味での知的な在り方なのかもしれません。まあ、それは良いにしても、そのようにして、私は皆さんとゆっくり、時にはスピーディーかもしれませんが、ともに良い影響を贈れる場を作れることを願っています。
このふみを以て、私のnoteの軌跡は始まることになります。
これからの出会いと行く先に、良きものがありますように。

令和6年3月19日(火) 22時57分 深淵



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