巨匠誕生
あるじサイド
小僧はお腹が弱い。最初に我が家に来た日もお腹を壊し、血便まで出た。その後は落ち着いたものの、常に便は緩かった。便が緩くて困ることといえば、散歩時の排便だ。落ちた便を拾っても、地面には排便の思い出がこびりつく。毎回それを紙でできるだけ拭き取り、水を流してきれいにしなければならないのは、かなり気の重い作業だった。
ならば小僧が便をするときを見計らって、落下予測地点にあらかじめ紙を敷いておいてはどうかと、私は考えた。小僧は排便に対して非常に繊細な男で、毎回ひねり出す場所を念入りに探す。公園の草むらや、目の前に壁が迫った場所が好みだ。
実績のある場所に来ると、私と小僧の間に緊張が走る。私は紙をスタンバイし、小僧が臨戦態勢に入るのをじっとうかがう。先に紙を敷かれることを、小僧は許さない。狙うなら落下の直前だ。小僧が少し横歩きになった。後ろ足の足取りが、少しずつ重くなる。背中を丸め、臨戦態勢に入った。小僧が足踏みをする。右、左、右、左。
まだだ。この段階で介入すると、小僧は気分を害してしまう。もう止められない段階まで待たなければならない。
右、左、右…。 左、左、左、左、左……。
今だ!
ひねり出す瞬間、小僧は左後ろ脚でリズムを刻むくせがある。そのサインを見逃さず、モノが落下する直前、小僧の尻と地面の間にするりと紙を滑り込ませた。
ピタリ。モノは体操選手のように、紙の上に着地を決めた。
よし、今回は成功だ。
小僧サイド
散歩で入念に用を足す場所を探っていると、なにやら背後から並々ならぬ気配を感じる。
なんだ!?
振り返ると、あるじのやつがわざとらしく目を反らした。何か、企んでいるに違いない。
この場所は排便には最適で、俺は何度もここで実績を残している。切り立った崖のギリギリまで攻めて、崖の上から叫ぶ獣のような姿勢で捻り出す、この爽快さ。いつものように、俺は崖スレスレに立った。よし、ここで出すか。
そうと決めると、作品は自然と降りてくる。背中を丸め、生み出す準備を整える。腹に力を入れ、意識を集中する。
右、左、右、左…。
足で小さくリズムを刻みながら、そのときを待つ。
右、左、右、左、左、左、左……。
なに!?
その瞬間、お尻のあたりにひゅっと風が吹き込んだ。あるじか!?
モノが生み出される瞬間を狙い、あるじが尻の下に何かを差し込んだのだ。そうか、さっきの不気味な気配は、それを狙っていたのか…。
せっかく崖の上で気持ちよく息んでいたのに、なんともやりきれない、すっきりしない排泄になってしまったじゃないか。
あるじサイド
その日から、小僧との紙を巡る攻防戦が繰り広げられた。小僧は紙を差し込まれることを嫌い、常に私の気配をうかがっている。少しでも紙を取り出す素振りを見せれば、既に足踏みスタンバイ状態でも取りやめてしまう。
うまくいくのは10回に1回ほど。あとの9回はモノをキャッチできず、涙をこらえてアスファルトに残った思い出を拭き取る日々が続いた。
あるとき、ふと考えた。モノをキャッチすることに集中しすぎて、根本的な問題を忘れているのではないか。そう、小僧の排泄物が常に柔らかいという問題だ。
論文掲載サイト、J-stageを開き、犬の胃腸、お腹緩い、などと検索すると、アレルギーから蛋白漏出性腸症、はたまたガンまで、ありとあらゆる症例の論文が並んだ。以前チェックしたことのある症例を除き、片っ端から開く。webページに新しいタブだけがどんどん増えていった。そしてようやく、小僧の症状と合う症例を発見。
食物繊維だ!
さっそく翌日から、小僧のドッグフードにスプーン山盛り1杯のおからを追加。これで解決するか…祈るような気持ちで、小僧を散歩に連れ出した。
いつもの崖の上。もう私は紙をスタンバイしたりはしない。小僧が作品を生み落とす場所を入念に探すのを、離れた場所でじっと見守った。
右、左、右、左左左左…。作品が土の上に着地した。それは色、艶、形状、固さ、そして匂いまで、最高の逸品だった。まさに巨匠の作品。こみ上げる感動を抑え、私は作品を取り上げようと、袋を取り出した。しかし…
作品は、一つではなかった。巨匠はまだ息み続け、一つの作品の上に次々と作品を生み出していく。最終的に一人前のチャーハンほどの作品群を生み出し、巨匠は工房を離れた。湯気の立つ作品群と私の間に、遮るモノは何もなかった。私はひざまずき、まだ温かい作品群を紙で拾い上げ、大切に袋にしまう。後に思い出はなく、漂う残り香だけが、確かに作品群がそこにあったことを物語っていたーー。
おからを食事に追加して以来、小僧は巨匠となり、散歩のたびに2回ほど作品群を生み出すようになった。巨匠作品はどれも艶やかで芳しく、最高の出来だ。私にとって誤算だったのは、生み出す作品があまりにも壮大で、ときに大型犬をも上回ることだった。
それ以来私は、巨匠が作品を生み出すときには、思索の邪魔にならぬよう、気配を殺して見守っている。
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