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嘔吐

元記事を読んで気持ち悪くなったので、吐き出しました。

体系だった反論をするほどの元気はありませんでしたが、読んで気持ち悪くなってしまったのを吐き出さずにもいられなかったので、これは私の3時間に及ぶ嘔吐の結果です。

ちなみに上の画像は嘔吐で検索したら出てきた哀れな金魚です。

■何が気になったの?

論理の飛躍、決めつけに基づく論理展開、法学的利益衡量の欠如(、後で判明:既に否定されている強力効果論に基づく主張)

■ゲロの中身要約

・実際の児童に性的被害が発生することはあってはならない。ここは変わらず共有できている点。
・犯罪だから悪いのではない。悪いから犯罪なのである。
・・しかし、元記事は犯罪だから悪いと主張しているように見える。
・内心の自由がある。考えるだけでは小児性愛も問題ではない。
・・これが忘れられているように見える。内心の自由に配慮するような記載はあるものの、その後にそれを翻すような記述もある。
・表現の自由がある。他者に見える形で表現する場合には、利益衡量が発生する。
・・このラインで批判を行おうとしているように感じられるものの、論点のブレや根本的な認識のずれ、散見される論理の飛躍により、「小児性愛への敵意に基づく差別的発言」として小さくまとまっているように見える。
・暴力的/性的なマスメディアによって影響されて犯罪行為を実施するという強力効果論がかつてあったが、既に否定されている。
・・元記事は強力効果論に基づいて「「フィクションに影響され加害を実行に移す危険性」を訴える論調へのカウンター」に対して、「児童への性的加害を発生させる可能性があるから良くない」という主張のみをしている。
・社会的責任って結局なんだ?
・・法的な責任能力の話と世論誘導の話が渾然一体となって迷走していたように思う。


■以下各論

以下、元記事を上から読んで気になった点とそれについての記載です。表現の自由周りの利益衡量含め、法学部分は曖昧な記憶で語っており、そこは申し訳ない。

■元のレポート漫画について
これを閲覧できていないので、元記事の描写とそこから判ることについてのみコメントする。
・センシティブな画像が誰しもの目に入る形で表現されていた点
これは元ツイートにゾーニングの問題がある。
・実在の児童に手を出す前に、ぜひラブドールを」という一文
文脈に拠る。この一文でもって「小児性加害に関するツイート」とするのは牽強付会。持って生まれた小児性愛の嗜癖に苦しんでいる人に向けての言葉であれば、発するべき形式はあれどオープンアカウントで公開しても問題ではない。繰り返して言うが元ツイートそのものを閲覧できていないので、そちらの漫画を見てオープンアカウントで公開するべきではないと判断することはあり得るが、「~~は言うまでもなく、最後の「実在の児童に手を出す前に、ぜひラブドールを」という一文が……」という形でやり玉に挙げられるような文章ではない。
・そもそも自分で小児型ラブドールを合法と言っている。

■「現実で思いを遂げたら即犯罪」
本当にここまで悪意と差別意識に凝り固まった文章を見たのは久々で少し気持ち悪くなってしまった。さておき、この部分には論理構造及び文章表現上の問題と、論点ずらしの問題がある。
まず前提として、小児性愛者が実際の児童に性的接触を持った場合、犯罪だから悪いのではない。児童やその周囲への物理的精神的被害や後に残る影響など、全てひっくるめて「実際の児童に性的接触を持つこと」自体が悪いのである。繰り返しになるが、犯罪だから悪いのではない。悪いから犯罪とされているのである。

元記事はここの因果が逆転している。だからこそ、「同性愛者が現実で同性と結ばれても、当たり前だが全然問題はない」という至極当然の言明の直後に、「(法律違反になる国も実在するのですが……それはまた別の話として)」などという明らかな蛇足が挟まれる。同性愛が法律違反であった場合、同性愛についても「現実で思いを遂げたら即犯罪」などと主張するのだろうか。元記事は、こうした言い換えを容易に、かつ不必要に想起させる形で記載されている。この言い換えは許されるべきではなく、したがって元記事の当該箇所も批判されて当然である。以上、論理構造及び文章表現上の問題である。

次に、論転ずらしの問題がある。これは簡単な話だが、そもそも小児型ラブドールの使用は「現実で児童と結ばれる」ことではない。

■性的嗜好と性的指向について。
これも論点をずらしている。端的に言えばこの二段落は全く不要である。
また、性的指向であれ性的嗜好であれ、生まれ持った資質であって本人にはどうしようもないという観点が全くない。
性的指向だろうが性的嗜好だろうが児童と性的接触を持つことが犯罪であると直後に言及しているにもかかわらず、不要な言及を挟んでいるのは何故なのか。「LGBTQは批判されるべきではないが小児性愛は批判されるべき」という主張が透けて見える。しかも前段の犯罪と悪の関係の逆転も合わせると、「LGBTQが批判されるべきではないのは、犯罪ではないから」と読める文章になっている。どうにも筋が悪い。

■「犯罪と肉迫していると言わざるを得ない性的嗜好」
何度繰り返せば良いのか判らないが、犯罪だから悪いのではなくて悪いから犯罪なのである。そして、実在の児童に対して性的欲求を持つこと自体は悪いことではない。内心の自由は保障されている。これは絶対の保障である。従って、小児性愛自体も悪いことではない。もちろん、実在の児童と性的接触を持つことは明かな悪であり、犯罪である。ただ、小児性愛者が実在の児童に手を出す前にドールを買うこと自体は悪いことではないし、つまり犯罪ではない。

次に、表現の自由のラインがある。これは何らかの物事を他者に見える形で表現する場合には、利益の比較衡量が発生するというものである。表現した方が社会的利益があるか、それとも損失の方が大きいかが、表現行為の差し止めに関する判断を左右する。こういった比較衡量における損失とは名誉毀損とか誹謗中傷とかの具体的な損失であって、「これを読んだ人が犯罪を起こすかもしれない」といった曖昧な危惧ではない。
ちなみに、これは本件について調べている過程で知ったのだが、暴力的/性的なマスメディアによって影響されて犯罪行為を実施するという強力効果論は既に否定されている。
結局ここは表現物(=元ツイートと漫画)を見なければどうとも判断は付かない。ただこの状態でも、「実在の児童に対する性的欲求を持った上での、小児型ラブドール購入」を表現すること自体は即座に悪とされることではないと考えられる。実行に移したら犯罪となってしまう行為に対して、代償行為を実施している旨を表現しているに過ぎないからである。

■「「子どもを守るという社会的責任」に対する自覚のなさ」
論点がずれている。
まず、「自身の性的嗜好そのものが、加害性を伴っている」ことは問題ではない。内心に留まる限り、どのような加害性を持った性的嗜好も問題ではない。この点だけを抜き出しても、元記事を読むに値しないとしてもよいとすら思うのだが、とりあえず続ける。
次に、加害性を持った性的嗜好を表現すること自体も、比較衡量の問題であって、表現すること自体が悪いわけではない。これは、ノーベル文学賞受賞者の作品が強姦を題材にしていた場合にその作品の発行を止めるべきか否か、という問題を考えるとわかりやすい。強姦を扇動するような内容であれば一定の配慮(例えば十八禁というゾーニング)も必要かもしれないが、そうではない場合に発行を差し控える理由はないだろう。川端康成を読むといい。掌の小説の中には温泉に入っている少女を視姦する話もあったように記憶している(読んだのはもう15年ほど前なので、違っていたら申し訳ない。でも薬で寝ている女の裸に触れる老人の話は別の本だが確かにあった。話が逸れた。)。
「「理想を言えば実在の児童と性的に触れ合いたい」という思い」を表現することも悪ではない。実際には実在の児童と性的接触を持っているわけではないのだから。実在の児童と性的接触を持っているわけではない=子どもに加害行為を働いていないので、最低限の子どもを守るという社会的責任は果たしている。一般的な意味としては。

■「小児性愛という嗜好を社会へ受け入れてほしいならば、当事者たちが「そんじょそこらの大人より児童の人権に配慮する」姿勢が必要ではないか。」
「小児性愛という嗜好を社会へ受け入れてほしい」を前提とするには議論の余地が大きい。穏健な小児性愛者の態度として、おおっぴらに小児と性的接触を持ちたいわけではなく、ただ小児に性的欲求を抱いてしまうこと自体は許容して欲しい、というものが考えられる。これは既に内心の自由によって保障されているし、これを認めない場合自由権侵害である。したがって、このラインでは社会に受け容れられるも何もない。
小児性愛という嗜好に基づいた漫画を公開すること自体に関しても、表現の自由で語るラインであって、社会へ受け入れてもらうかどうかの話ではないように思う。
「社会へ受け入れてもらう」=「実在の児童と性的接触を持つことを許して欲しい」とするならば、受け入れようもないのでどうしようもない。
しかし、実在の児童に加害する前に代替物を使用することを勧めるのであれば、むしろ実在の児童と性的接触を持たないように勧めているように読める。
ちなみに、この文言の「小児性愛」を「同性愛」に入れ替えた場合、どうなるのか考えてみると非常に不愉快になれる。同性愛者が社会に受け入れてもらうために何を配慮すればよいというのか。

最後に一点、小児性愛含め性的嗜好/指向は現実のものであって、フィクションではない。自身の小児性愛とそれへの向き合い方は現実の問題であって、フィクションではない。ラブドール=フィクションという想定なのだろうか。それとも、現実では実行できない行為をフィクションによって発散するという論の話をしているのだろうか。後者の場合、論理の飛躍が激しい。

■「加害が助長される場合も“ある”」という事実
強力効果論を参照のこと。今のところ否定されている。したがって事実ではない。
「フィクションは現実に影響を及ぼす」ことは私自身は信じたいと思っているし、実際にフィクションに影響を受けて行動を変えたと自認している部分もある。しかし、社会通念上歓迎されない事柄に対する憧れや欲求を助長されたからといって、それは内心に留まるものであって、現実に実施するか否かはまた別の問題である。
その判断をできるかどうか、というより自分が下した判断の責任を取れるかどうかは成人ないし法的責任能力というラインで弁別されており、その責任をとれないと判断されている未成年に悪影響を及ぼすフィクションを見せないために「18禁」という制限がある。
成人に対して悪影響を与えるかどうかは、フィクションに責任を負わせられるものではない。行為者である成人がその責任を負うのである。ちなみに未成年の場合は、ただ自分の行為の責任が取れないだけである。
したがって、責任論で言えば、フィクションには一切の責任はない。

■大喜利大会
これが面白くないというのは理解するが、反論の筋が悪い。

■社会的信用の失墜
そもそも小児性愛及びそれを題材としたフィクションにどこまでの社会的信用があるのか、という悲しい現実がある。そして小児性愛は既に法的に規制されている。一体何の話をしているのか。「オタクコンテンツ」に敷衍するには、例示や論理の組み立てが足りない。

■通り魔殺人鬼が主人公のフィクション作品が大ブーム
フィクションに責任はないという点は再度挙げておくとして、
・実際に通り魔殺人を実施した犯人が悪いのであって、危惧自体は杞憂である。
・そもそもこんなものがブームになる社会からの影響の方が大きいのでは。

■「殺人は絶対に許されるものではない」というメッセージ
これはクリエイターの責任ではなくそれまでの生育環境の責任である。せめてそのくらいは家庭や学校で習っていてほしい。

■「フィクションが現実に与える危険な影響」
(強力効果論について措いておいたとして)これに敏感であることは結構だが、それ以前に現実の方で倫理や社会常識を涵養するべく努力すべきではないだろうか。

■社会的責任を放棄してきたものが、それに対して慌てて異議を唱えてももうおしまいだ。
普通に圧力団体や陳情、投票行為でもって政策決定に関与すればよいのでは。
好意的に解釈すれば、そうした行為をするために「社会的責任」を果たせと言いたいのだと読めなくもないが(ないか?)、まずフィクションが現実に与える影響についてこじつけられている上、結局ことここに至って「社会的責任」が曖昧なままである。子どもを性被害から守るということではなかったのか。人に悪い影響を与えるな、ということであれば、(強力効果論を措いておいたとしても)悪い影響によって悪い行動をしてしまわないように倫理や社会常識を涵養することこそが社会的責任を果たすことではないだろうか。
「そういうのが好きそうな人々」の言葉で語るのであれば、子どもを外で遊ばせて、転んでも泣かないように育てることこそが、社会的責任を果たしているということなのではないか。

■大喜利やめろ
それはそう。

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