ある年の高校演劇県大会の講評

「I WiSH…」

 既成の戯曲を選ぶといっても、なかなか簡単ではないのは事実です。基本的に戯曲は売れないので、出版されたとしてもすぐ絶版になってしまうし、そんな発行部数の少ない戯曲を配架している図書館も絶望的に少ないのが現状です。
 Amazonなどで探そうとしても、タイトルや作者名を知らないと検索できないので、それも簡単ではありません。なんとか戯曲を探すべく様々な手段を講じたのだと思います。そんな現状の中で、ネットに頼ってしまうのは致し方ないことでしょう。
 高校演劇で上演されている、この作者の作品を何本か見ていますが、残念ながら、これまでポジティブなイメージを持ったことがありません。恐らく「はりこのトラの穴」というサイトで探したのだと思います。違っていたらごめんなさい。
 一昔前までは、このサイトくらいしか、ネットで探せる戯曲は無かったのですが、現在は、昨年出来た「日本劇作家協会 デジタル戯曲アーカイブ」をはじめ、閲覧無料の戯曲で質の高いものも公開されています。戯曲を選ぶのであれば、まずはネットで演劇情報を集め(高校演劇だけではなく)、ある程度評価されている作者や劇団の作品を探ってみるのも一つの手です。
 わたしは、どんなに拙くても雑でも支離滅裂でも、現役の高校生が苦闘して書いた戯曲の方が見たい、と考えています。というわけで、元になる戯曲に由来する瑕疵は見なかったことにして、こうすると良いのじゃないか? ということを書き綴ります。
 まず、セリフについて、声を大きく出すとか、言葉をはっきり言うとかを意識するだけではなく、セリフの内容を客席にまで伝える、という意識を持って会話して欲しいと考えます。見た限りでは、舞台上のお互い役者同士では、言葉の意味や持っているニュアンスを共有できていると思うのですが、それが客席にまで届いていないと思います。声のボリュームや滑舌については、実はさほど問題ではなくて、問題なのはセリフを届ける意識だと思うのです。
 そんな中で、マリーとモモの会話で、夢と望みについて語られるところは、比較的伝わったような気がします。その場面では、役者当人がどのように、そのことについて感じているのか、ということが何となく実感できていたのではないでしょうか?
 役者の配置については、かなり意識していたのではないでしょうか? シンプルな舞台装置と照明、条件が限られる中で健闘していたところだと思います。また、舞台装置は、洋館の雰囲気を出したいのであれば、マリーの座っている椅子をアンティークにする、というような一点豪華主義の方が手間もなく、効果も高いと思います。
 役者の配置はなんとかなっても、案外難しいのが、それぞれの役者の手の置き所です。演じているときに、手をどこに置いておけばいいのか? については、かなり難しいのです。重要なのは、喋るときに手を動かすことを意識するのではなく、セリフの無いとき、ただ聞いているだけのときにどのように佇んでいるべきかということです。手を動かそう、体を動かそう、としたときに、それは不自然になり、観客はそれを見逃しません。
 演劇はリアクションで出来ています。何かを話し、表現することが重要なのではなく、むしろ、聞いている、その状況にただ「居る」というときが重要なのです。舞台上で何かをしようとするのではなく、舞台上で何が起こっているのかを感じる感性を磨き、それに対するリアクションを精査することによって、より楽しく演劇が出来ると思います。

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