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劇評 ボーイズドレッシング♯07「うみをおりれば」作・演出/ベロ・シモンズ

赤いナポリタン

本紙編集委員 くらもちひろゆき

 食卓に向かい合い、いつもより赤いナポリタンを食べる夫婦の姿。夫に殺されたはずの妻は、復讐なのかそれとも愛情なのか、ともに吸血鬼として生きて行くであろう未来を予感させている。音もなく降りてきた食卓の明かりが、2人だけを照らし出し、この作品は終了する。
 ここまで来て初めて「なるほど、吸血鬼という要素は必要不可欠なのだな」と得心がいった。途中までは、夫婦の不倫の話が、吸血鬼の話とフィットしてないんじゃないかという疑念を持ちながら見ていたのだ。しかし、だとすれば、吸血鬼という物語に必須な要素は、もっと早く序盤に出てくるべきだったろう。そして、吸血鬼になったら普通の食べ物食べられなくなっちゃうんじゃないの? という疑問はぐるぐるしたままだ。
 現実から跳躍した広義のファンタジーを描く上で、説得力を持たせる方法は恐らく二つ。徹底的にリアリティを追求し、一分の隙もない理論を構築して「この世界はそういうことになっている」と説明し尽くす。もしくは、「この世界はそういうことになっている」のだから、通常では考えられないけれども、こういう行動が当たり前になっている、ことを徹底的に追求する。恐らく後者が一般的だと思う。
 序盤から中盤にかけて、後に吸血鬼であることが判明する日野に関わる生活保護を取り巻く舞台設定などは、さすがのリアリティで、他の人ではここまでのものは書けないだろうと思わせる。そして、その場面場面でのやり取りや行動原理など、ちょっとおかしな行動をしても納得させられる人間観察力や、セリフのたたみ掛け方、人物の出入り、場所の設定の仕方などは、実に巧妙である。所々で重要なセリフが聞き取りにくかった恨みは残るが、それぞれの配役も絶妙で、役者もキャラクターを掴んでいる。
 しかし、ラストシーンの着地点が上記だとするならば、そこに収斂していくためにそぎ落とすべきものや足りないものもあったような気がする。
 夫に殺されたはずの妻が、吸血鬼の血を体に入れられることによって蘇生する。不死の体を持つことになっても殺された事実は消えない。この事実から、自らの血を夫に与えて不死の長い時間をこれからもともに過ごしていくのだろう、と予感させる幕切れまでの妻の変化が読み切れないというか、なんでそうなった? と感じてしまった。
 とするならば、前提として、妻が夫を渇望している事が必要だと思う。多情な妻は、出入りの公務員小早川を含め、恐らくそれ以外の男とも情を通じていたのだろう。しかしそれは、夫である添野に対する思いが強いがための不倫であって、そうでなければ、終幕の行動に説明が付かない。夫である添野は、こちらも様々な女にちょっかいかけているようだが、真ん中には妻であるあきみへの思いが強くあるはずで、そうでなければ、妻を殺す理由が見つからない。つまり、お互いへの思いが強くあり、それが上手くいかないから不倫に走り、結果許せなくなって殺害に至る。
 殺される側の妻は、殺されることによって夫の愛情を確認したのであり、だからこそ幕切れで自らの血を分け与えるのだと思う。つまり、足りなかったのは、序盤にお互いがどれほど相手を渇望していて、それがどれほど上手くいっていないのかという描写だろう。 シンプルに解析するならば、縦糸はこじれた夫婦の愛情の話、横糸は吸血鬼の存在とその与える影響の話。そこに舞台であるカフェとNPO、そして生活保護とユーチューバーがエッセンスとなってあの美しいラストシーンに結びつく。
 今回の作品は、それぞれの登場人物の枝葉に入り込んでしまって、中心であるはずの幹が見えずらくなるという結果を招いたように思う。枝葉を適切に刈り込み、ラストシーンに収斂する道筋を太くすれば、さら高い地点に到達した作品だったろう。ベロ・シモンズには期待が大きいだけにこの先を目指してもらいたい。

2022年6月17日(金)風のスタジオにて 

2022年10月27日発行感劇地図に掲載されたもの

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