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魚が死んだ

魚が死んだ。

我が家はずっとマンション暮らしなのでペットを飼うことはできない。
娘はずっと猫を飼いたいと言っているけれど、マンションだから無理だねということで娘自身も納得はしている。

ところが、先日たまたま見つけたイベントにボトリウムワークショップというものがあったので家族で行ってきた。ボトリウムとはボトルとアクアリウムからつけられた造語で、ガラス製の大きめの瓶の中に石や水草を配置して、魚と貝を1匹ずつ飼えるシステムの商標だ。

ボトリウムを考案したてっちゃん先生に教わりながら、娘は大喜びで様々な色の石を敷き詰めて水草を植え、完成したボトリウムの魚と貝一匹ずつが我が家に来た。

ついに生き物を飼うという経験を家でできることになったのだ。
名前をつけようということでメダカと思われる魚(ちゃんと調べたらアカヒレだった)には7月に来たから「ナナ」、貝はカタツムリに似てるから「ツムリ」という名前を付けた。

ボトリウムでは子供でもできる週に1~2回の水換えと1日おきの餌やりが必要になる。餌やりの日にはナナが餌を口にする様子を嬉しそうに眺め、水換えも自分ひとりでやっていた。
そんなふうに我が家の日常にナナとツムリがいる風景が当たり前になったと感じていた矢先だった。

娘がいつものように水を受ける容器の中にボトルを入れてペットボトルに用意していた水を注ぎ込んだ。このままではボトル一杯に水が入っている状態になるので、多すぎる水についてはボトルを傾けて水受けに流し込んで減らす。

ところがだ、傾けた先が水受けの外側に向かってしまい、ナナが容器の外に飛び出して床に落ちてしまった。娘は早く助けてあげなければと指でナナをつまんで水の中に戻した。

すぐに元気に泳ぎ回ると思われたナナは、しかしそのまま動かなくなってしまった。

らしい。

らしい、と書くのはこの時僕は外出していて、妻も洗濯物を干していて、現場を見ていなかったのだ。

動かなくなったちょっと後くらいに帰宅した僕に、娘は泣きじゃくりながら事の経緯を説明してくれた。
そのまま泣き続ける娘。
交互に抱きしめてあげる僕と妻。

わざとじゃないし、不運が重なってしまっただけ。
だけれども、やっぱり元気に動き回っていた命が簡単に動かなくなってしまうという事実は重い。

「お墓を作ってあげよう」
「失敗しちゃうのはしょうがないから、次からは失敗しないようにしよう」
「助けようとして焦っちゃったんだよね」
「わざとじゃないから、娘ちゃんは悪くないよ」
言葉をかけてあげるけど気の利いたことなんて言えないし、泣く娘を抱きしめて撫でてあげることしかできない。

次の日の朝、ベランダの鉢植えに埋めてお墓を作って家族で手を合わせた。
事件直後、僕は親目線で冷静にこんなことを考えていた。

娘が命を大切にする子に育ってくれて嬉しい
娘にとって次に同じ種類の魚を買ってあげた方がいいのだろうか?違う魚?
名前は前の子と関連するものがいい?個を大切にするために全然違う名前?

みたいなことだ。

でもやっぱり、それとはっきりと分かる形じゃなかった悲しさが大きくなる。
なんでだか泣きたくなる。
子供の成長にとって良い影響を与える、娘が喜んでいるところを見られる、という観点でしか見ていないと思ってたのに。

命の重さをまともに受け止めると耐えきれないから自分の手の届く範囲の外にある命についてはあまり考えないようにしている。今回は手の届く範囲内のことだけど僕にできることはほとんどない。

きっと僕は同じ種類の魚を1匹買ってきて、その子と生活していくだろう。
今日の感情も一部を除いて忘れてしまうだろう。
それが人間の利点だから。

でも、そのまま何事もなかったように忘れてしまいたくはないのでnoteに残しておく。墓を作った直後の感情のまま書き殴ったので、しばらくこの文章は寝かしておこうと思う。

後記:今は同じ種類の魚を迎えて違う名前をつけている。
ナナが死んでしまったのはつまんだ力が強かったのではなく、人間の手で触ると温かすぎて温度変化に耐えられないかららしい。万が一のときのために網を買った。
娘は水換えするときに水受けの位置と角度にかなり気を使うようになった。

今日の写真:元気だった頃のナナ。
天国で元気にやっていますように。

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