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読書びより

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#トルストイ

『人間の建設』No.52「記憶がよみがえる」 №3〈なつかしさと記憶〉

 この小林さんの発話は、前段の末尾で岡さんが語った「懐かしいという情が起こるためには、もと行った所にもう一度行かなければだめです。そうしないと本当の記憶はよみがえらないのですね」を受けた言辞です。 「不易」は一般に考えられている、固定した価値観のようなものではなくて、詩人の直感であり、幼児のときの思い出に関連していて、そこに立ち返ることを、芭蕉が不易と呼んだのではないかと小林さんは言います。 「「一」という観念」の章でした。赤ちゃんに鈴の音を聞かせる。初め振ったときは「お

『人間の建設』No.37 無明の達人 №1〈再び、ドストエフスキー〉

 いまドストエフスキーの「白痴」の、全四巻中第三巻の前の方を読んでいます。主人公のムイシキン公爵は絵にかいたような善人のイメージで、ロゴージンという登場人物が対極の悪人。絶世の美女、ナスターシャをめぐる関係が描かれていきます。  ところで、登場人物のだれかが長広舌をふるう場面があるのですが、その多弁がまるで洪水のようで語彙の過剰に圧倒されそうなのです。ドストエフスキーの小説を読むときの独特の感覚かもしれません。  ともあれ、まだ完読してこそいませんので感覚ですが「白痴」は

『人間の建設』No.35 人間の生きかた №3〈トルストイとドストエフスキー〉

 こんどはドストエフスキーとトルストイの話に入ります。小林さんがドストエフスキーの魅力を「悪漢」と要約し、岡さんがトルストイを「真正直」と形容します。  これはほとんど正反対の性格というか、ものの見方の違いなのだと思います。岡さんはトルストイの小説を一目で見渡せる街のようと言いました。いっぽう、ドストエフスキーの小説は先が予測できないと。  岡さんの言うことはわかる気がします。両作家の小説を決して多く読んだ経験は私にはありませんが、少ない読書経験でも両者の違いというものを

トルストイ『人生論』、読んでいます。3(終)

トルストイの『人生論』。この本を読みながらしていることがあります。各章から、エッセンスと思われる一文を引用して「つぶやき」でnote記事に。この複雑で難解とおもえる本の内容を読みとき、読みこなすための作業として……。ここまでをひと区切り。通しで振りかえりたいと思います。  今回は、第二十五章から最後(補足3)までをまとめました。 📗 第二十五章  愛は、それが自己犠牲である時にのみ愛なのである。人が他人に自分の時間や自分の力を捧げるだけでなく、愛する対象のために自分の肉

生命に付随するさまざまの現象を研究しながら、生命そのものを研究していると思いこみ、その想定で生命の概念をゆがめている。/補足2 個人的な幸福と欺瞞的な義務とを訴えかける声よりもこの(理性の)声の方が強くひびく時がやがて来るし、すでにもう来たのである。/補足3 トルストイ『人生論』

わたしが人間であり、個我であるのは、他の個我の苦しみを理解するためであり、私が理性的な意識であるのは、それぞれ別の個我の苦しみの中に、苦しみの共通の原因たる迷いを見て、自分と他の人々のうちにあるその原因を根絶することができるためにほかならない。 トルストイ『人生論』第三十五章

人間の生命は幸福への志向である。人間の志向するものは与えられている。死となりえない生命と、悪となりえない幸福がそれである。/結び 幸福に対する志向としての生命の定義をぬきにしては、生命を観察することはおろか、生命を見ることもできないのである。/補足1 トルストイ『人生論』

人が真の生命を持つためには、時間と空間の中にあらわれるちっぽけな一部分ではなく、生命全体をつかむことが必要である。生命全体をつかむ者は、さらに付け加えられ、生命の一部をつかむ者は、現に持っているものまで取りあげられてしまうだろう。 トルストイ『人生論』第二十九章

わが身にてらしてわかる肉体的生存の避けがたい消滅は、われわれが世界に対して現在取っている関係が恒常的なものではなく、別の関係を確立せざるを得ないことを、示してくれる。この新しい関係の確立、すなわち、生命の運動が、死の観念を消滅させてもくれるのだ。 トルストイ『人生論』第三十章

他の人々の幸福のために個我を否定して生きるならば、そういう人はこの地上の、この生活の中で、すでに世界に対する新しい関係に踏み込んでいるのであり、その関係にとって死は存在しないし、その関係の確立こそがあらゆる人々にとって、その生命の仕事なのである。 トルストイ『人生論』第三十一章

私の肉体的生存は、長かろうと短かろうと、私がこの人生に持ち込んだ愛の増大のうちにすぎるのであるから、私は誕生前も生きていたと疑うことなく結論できるし、……肉体的な死の以前、以後のあらゆる他の瞬間のあとも生きつづけるだろうと結論することができる。 トルストイ『人生論』第三十三章

人は、自分が決して生まれてきたのではなく、常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識するときにはじめて、……自分の生命が……永遠の運動であることを理解するときにはじめて、人は自己の不死を信ずるようになるだろう。 トルストイ『人生論』第三十二章

トルストイ『人生論』、読んでいます。2

トルストイの『人生論』。この本を読みながらしていることがあります。各章から、エッセンスと思われる一文を引用して「つぶやき」でnote記事に。この複雑で難解とおもえる本の内容を読みとき、読みこなすための作業として……。ここまでをひと区切り。通しで振りかえりたいと思います。  今回は、第十三章から第二十四章までをまとめました。 📗 第十三章  われわれの知識の真実性は、空間と時間の中で対象が観察しうるかどうかにかかっているのではなく、むしろ反対に、空間と時間の中でその対象の

真の愛は常にその根底に個我の否定と、そこから生ずるあらゆる人に対する好意を有しているものだ。この全般的な好意の上にのみ、……真の愛が育ちうるのである。……こういう愛だけが、生命に真の幸福をもたらし、動物的意識と理性的意志との外見上の矛盾を解決する。 トルストイ『人生論』第二十四章